もぐぞうのあなぐら

周りの人達と上手く渡り歩けないもぐぞうが日々感じたことや考えを思うままに書き連ねます。

2007年04月

慣れてしまえ男

足跡1800番目はよーさんでした。ありがとねん。

で、よーさんの時に失礼なのだが慣れとは怖いという話を。

最近和式のトイレを利用する事が増えたのだが、何故か大の方ができない。お腹がはってもよおしたくなるのだが、いざしゃがみこむとでないのである。
昔、実家が和式から洋式に変わった時もしばらくはちゃんとできなかった事を思い出した。
慣れてくると逆転現象が起こっているのである。
先日機種変更をした携帯の話を書いたがそれと同じような事が起こっている。
人間ってのは不思議な生き物で新しい事に順応しようとする反面、古い経験や慣習を忘れようとするところがあるみたいだ。
そのうち、この文字の打ちにくい携帯も慣れてしまうのだろうか?
文字の打ちにくいさと画面表示のドットの粗さ以外は結構気にいっているのだからそれさえ受け入れてしまえば案外いい携帯なのではあるが、いかんせん携帯を使うのがほとんどメールやmixiなので、この文字関係の不具合は結構、致命的ではある。
早く慣れてしまった方がいいんだろうなあ~。


振り返ってしまう男

今使っている携帯が2年を過ぎいろいろなところで不都合が出てきたり、外見も剥げてきたりしてキャンペーンをやっていて安くなると言うことで、昨日携帯の機種変に行ったのだが、新しい携帯が使いにくい。
まだ慣れてないというのが多分にあるのだろうけれど、よく使うボタンが今までの携帯とは左右逆で使いにくい。

もともと、何でも買う前に入念に下調べをしてたくさんの中から一番ベターなものをチョイスするのだが、やはりどうしても使い慣れた以前の機種と比較してしまう。
特にメールを打つとき小さい「っ」とか文字の切り替えとかが全く違っていてストレスがたまる。
別にこの新しい機種だからというわけではなく、以前の機種も買い換えたばかりの時は「使えねえなあ」と思っていた。
その前の機種が一番良かったわけでもないのに、何かしらの不都合があったから買い換えたのに以前のものを美化してしまう。

これは携帯に限らずどの商品を「買い換えた時」は大概起こる。なかなか「買い換えて正解!!」ということは起こりにくい。年末に車を中古ではあるのだけれど買い換えてもやはり、「前の車のあそこがよかった。ここがよかった」と美化してしまう。
無理矢理買い換えさせられた訳でもなく、自分から望んで買い換えたのにである。買う前は欲しくて欲しくて、なんどもパンフレットを見たり、携帯ショップをのぞいたりしていたのにいざ手にすると以前のものや他人のものと比較してしまう。そして、また慣れてその頃に新しい携帯に買い換えたとき、今の使いにくい携帯を「あそこが良かったなあ。」と美化してしまうのだろう。


こういうことって別に商品だけでなく、旅行でもそういうことはあるだろうし、会社(就職)なんかでも、あるいは人生でも当てはまることだと思う。
今が嫌だったり、納得ができなかったり、何かを変えるきっかけにしたくて、何かを手にしたり始めたりすると決まって過去と現在を比較してしまう。すごく無駄なことにもかかわらず、比較して今の自分が正解だと思い込もうとして、でも簡単にはそう思えなくて過去に縛られてしまう。
別に今の自分が正解でなくても、過去より劣っていても何ら問題はないのに「前よりもより良く!」なっていないと気が済まないタチであるらしい。
間違ったら「ごめん」と謝って改めるように、人生も過去より悪くなったとしてもそこからより良くなるよう頑張ればいいことだし、その「より悪くなった」事でさえ本当に悪くなったのかと言えば未来の自分から見たら、結構「必要な通過点」だったりするかもしれない。

そういうことって本当によくあると思う。ほんの一瞬、ひとときの不遇をすべてと思い込んでしまって、自分の全てを否定してしまったり、諦めたり、投げ出したりしまうことってよくあったりする。
これは本当に愚かしいことで改めなくてはならない考え方だと思う。
長い目で観る、全体を通して観る。それはすごく重要なことだと思うし。そういう考え方でいられたなら、些細なことで心を揺さぶられることなく、動じることなく、慌てふためくこともなく、落ち着いて沈着冷静に人生というものを楽しめるのではないかと思う。

今苦しいからと行ってこれから先もずっと苦しいのか、逆に今楽しいから終わることなく楽しいのか。
あるいは今我慢すればその先には何かがあるかもしれないと期待できるかもしれない。
そういう未来や全体を見通すイマジネーションというかイメージをいうか、つまり想像力を豊かに持てば意外と世界は違って見えるのかもしれないと思う。

嘆く男

見えてるものを観てる訳じゃない。
聞こえてる音を聴いてる訳じゃない。
生きているからといって活きてる訳じゃない。

とかく情報やさまざまな状況に追われてしまって本質を見過ごしてしまうことがある。
足元が浮ついてる時がある。
かといって足元や本質ばかり気にしていては心にゆとりや遊び、余裕がなくなってしまう。

難しく考えすぎると体や頭が硬くなってしまって身動きがとれなくなってしまう。
流されているようで流れてる。そんな生き方ができたらなあと思う。
自分に素直に心の趣くままに行動できたらなあとも思う。
しかし、時としてその心に自分自身に「何がしたいんだ!どうしたいんだ!何が欲しいんだ!」と問い掛けてしまう時がある。
自分自身なのに自分が解らなくなる時がある。
打算や見栄といった鎧が体を重くする。
「それも人間だよ」と言ってしまうと自分を誤魔化しているようで、自分で自分を慰めているようで釈然としない。
そして、もがき、苦しみ、抗い疲れ果ててしまう。
それで答えが出たのかというと苦しんだという自己満足だけが残る。

自分を苦しめる事で追い詰める事で贖罪をしたような気になって自分を正当化してしまう。
なんてちっちゃいんだ~(TOT)


足あと1700番目は…

さきさんでした。
さっそくの来訪ありがとうございました。


最近放置気味で足あともかなり減ってます(;_;)仕方ないんだけどね。
でも、こうして一人遊びをするのも好きです。いろんな事妄想したり、考えたり…結構楽しかったりします。
一人でいる時間も誰かといる時間も、どちらも俺にとっては大切でうまく両立できたらいいのになあ。
なかなかそれがうまくできない…。一人が二、三日続くとしばらく一人でいたいなあと思うし、誰かといた後一人になると淋しくなるし、一人が長くても淋しくなる。なかなかうまくバランスをとれない。
というか、もともとそういうものでバランスなんかとれないものなのかもしれない…。
まあ、単なる無いものねだりかもね。

想う男

昨日は沢山の方から誕生日のお祝いのメールを頂き、ありがとうございました。前回の日記にも書きましたが本当に他人から誕生日を祝ってもらったことなどなくてメールですら一、二回あるくらいです。だから何の期待もしていなかったし、先週末に祝ってもらったことでかなり満足していました。それが次々とメールを頂き嬉しくてただ感謝感謝でした。本当にありがとうございました。
でも、理不尽なものでメールを頂いた方の誕生日を忘れたり知らなかったりするので頂いた方の誕生日にお祝いメールを送り損ねていたらすみません。先に謝っておきます。自分勝手ですみません。


ここから本題です。

僕は時折自分存在が無意味に思えるときがあります。世の中のために生きているわけでもなく、誰かのために生きられる力もなく、夢に準じ自分の為に生きる出もなくただ漫然と惰性で時を過ごしているとそう感じることがあります。何の為に生きているんだろうと、「生きている理由」を探してしまうときがあります。「生きることに意味はない、生きていくことに意味がある」って分かっているのに無意味に感じられ今日を生きていることと今日、死ぬことで何の違いがあるのだろうと思ったりします。「こんなちっぽけな俺が生きていても意味がない。まわりに迷惑をかけるぐらいなら生きていない方が死んだ方がマシだ」と思ってしまいます。
そしていつも気付くのです。生きていく価値のないくらいちっぽけな俺一人の命、存在場所くらいこの大きな宇宙の中に一つぐらいあっても場所を取らないだろうと。こんなにもちっぽけな俺が人に与える迷惑なんてたかが知れてるだろうと。だから、たかが100年くらい生きてたって長い長い時間の流れから見たらほんの一瞬で、もしこれから先永久に忘れられることのない迷惑をかけられるなら、それはそれで凄いことなんじゃないかと思います。

ある人から言われました、「私は人を不幸にしてしまう」と。こんなちっぽけ俺一人を不幸にしたところで一体どれほどの罪があるというのだろうか?その人の言う「不幸」ってどの程度なんだろう。もしかしたらその人にとっての不幸も俺にとっては「幸せ」なのかもしれないのに…。這い上がれないくらいどん底の「不幸」ってのを与えられるものなら与えれほしいものだ。案外、人を簡単に幸せに出来ないように、簡単に不幸にも出来ないものだと思う。
俺といるのが嫌で口実としてそういうことを言っているのなら分からなくもないが、だとしたら素直にそう言えばいい。もし仮に今まで本当に「誰かを不幸にしていた」としてもその中に俺はいなかったわけだし、その「不幸」ってのがどの程度のものか見てみたい気がする。
そんな事を気にして悲しい顔をする方が、よっぽど見ていてつらい。


とまあ、おそらく読むことなどないであろう人に向けてこんな事を書くのもどうかと思うが、人が生きていく上で迷惑をかけずに生きていくなんてありえないし、どちらかといえば迷惑をかけてるほうが多いと思う。
俺が生きていなければもしかしたら魚や豚は殺されなかったかも知れないし、生きていなくても殺されていたかも知れない。俺に何かを言われて傷ついたとして、俺がいなくても誰かに別のことで傷つけられたかも知れない。実際起こっていないことを起こったかのように思いめぐらせてふさぎ込むなんて、なんて愚かなことなんだろう。

想像することは大切なことだと思う。未来を想像しその為に今を精一杯生きる。誰かの痛みを想像し優しく接する。地球の裏側を想像し、自然を大切にする。そういう想像、プラスに転換できる想像は必要だと思う。たとえそれがマイナスの結果になったとしても。しかし、簡単にプラス思考でいられないのも分かる。だからといって起こってもいないことに不安を抱いて一歩が踏み出せないのは愚かだと思う。それを杞憂といったような気もする。不安は必要だと思う、不安が的中しないように備えることができるから。でも、備えることの出来ない不安を抱いても仕方のないことだと俺は思う。

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