もぐぞうのあなぐら

周りの人達と上手く渡り歩けないもぐぞうが日々感じたことや考えを思うままに書き連ねます。

2009年08月

思考途中…

ここ何年か考えてる事がある。


個性的と人と違うはどう違うのか。
優しさも考えて使わないと甘やかしてる事になるんじゃないだろうか。

なんて似た意味合いの、でも違う言葉達の『違い』を考えてたりするのだが、そもそも『違い』ってなんだexclamation & questionって事をよく考える。

その意味合いによっては「違う」事は美徳とされるし、場合によっては「違う」事は不徳となったりする。

『違う』ってのは比較する対象との間に線引きがあって『境界線』があるって事だ。
つまり、一人、一つ、一度では『違い』はでない。
表裏、光と影のように二個イチの関係、他者の存在があって初めて存在するもの。
自分一人だと分からない。一度しか経験していないと分からない。一人ぼっちが二人になった時に産まれる「違い」。
「違い」ってなんだろう?


そんな事を考えていると「違う」のか「同じ」なのかが分からなくなる。「同じ」が分かれば「違い」も分かるんじゃないかって。
でも同じものって以外とないんだよね。同じものが二つ並んだとしても、全く同じ位置にはならばないし、同じ経験をしても経験した時間が違う。つまり「同じ」というのはある限定された定義の中においてのみ通用するという事じゃないかという事。
じゃあ「違い」もある基準を満たした時に初めて成立するものなんじゃないか。


で、確実に違うものって何かって考えた時、男と女って全く違うよなあって思った。見た目からして違うし、考え方も結構違う。


なんでこんな事を考えるかというと、僕は僕と違う人が好きな事にある時気付いた。同じ考えの人、価値観の人、同じ会社の人にはあまり興味がない。学ぶところがないから。
方程式で例えたら、僕が足し算だと、同じ足し算の人にはあまり興味がない。足すだけだから。同じように引き算だけの人にも興味がない。
足し算と掛け算の人や引き算と割り算の人とか複合的な方程式の人にはなんでその答えになるか分からないからすごく興味がある。

でもそういう人達に興味を持ち、知ろうとすると逃げられる。嫌われる。なんでその答えになるのか知りたいから尋ねてるんだけど、僕の聞き方が上から目線なのか、あまり答えてくれない。

んで、その複合的な方程式の持ち主が僕にとっては女性なのである。
まあ肉体的に好きだってのもあるが、それも「違う」から好き何だと思う。




と、まあまだ結論なんて出ていないが、考えている途中の事を書いてみるのも面白いかなあっと思って書いてみた。
これからこの思考はどっちへ転んで進んで行くのだろうか…。


業務委託って何だ?

甲は乙に対して業務を委託する。もちろん甲ってのはうちの会社であり、うちの社長の名前。無造作に社長の机に置かれた書類にそう書いてあった。

???

会社が無くなるのか?
社長が変わるのか?

ここんとこ見知らぬ人が何人も来るなあと思っていたが、そういう事なのか?

確かに赤字の仕事を赤字だと気付かずにやってるんだからいつかは破綻するだろうが、資産家であり、金持ちのボンボン社長がそんな事するのか?

ん~イマイチ先が読めないなあ。


器の話 続編

むか~し、人は器に例えられるんじゃないかという話を書いたと思う。
おちょこの様な小さな器の人もいれば、ビールジョッキのような人やバケツのような大きな器の人がいる。
しかし、器が大きいからといってバケツで日本酒は飲めないし、おちょこにビールは似合わない。
つまり、人はそれぞれの器に合った役割や可能性を持っている。という事を書いたかと思う。

今日はその続きを。

例えどんな大きな器を持っていたとしても、苦しみや悲しみの水で器が満たされてしまっていては、ほんのわずかな水でも注がれてしまえば途端に溢れこぼれ落ちてしまう。
ましてや小さな器の人がいきなり多量の苦しみの水を注がれてしまったら、注がれる水を拒む前に溢れ、逆に注がれ注がれた水の中に沈んでしまう。

そんな事を考えている時、ふと思った。
僕はチビで不細工で口の悪い男なんだが、そういう分かっている欠点を少しぐらい人に指摘されても、それほど不愉快にはならない。
しかし、そうではなく例えば「時間にルーズそうやなあ」とか「いい加減な人やなあ」と言われると途端に機嫌が悪くなる。
自分が注意し心掛けている事の逆を指摘されると不愉快になるのである。

つまり、僕にとっては外見という器は大きめで、几帳面という器はかなり小さいという事である。
ということは、人が持つ器というものは一つとは限らないのではないかという事である。
大局的には人は一つの器なのだろうが、その中にはまた幾つかの器があるのだろうということである。
言い換えれば、人は一つの建物であり、その中に幾つかの部屋を持っているのではないかと言う事である。
ワンルームの人もいれば庭付きの豪邸のような人もいる。
狭い建物の人はあまり荷物を置けないだろうし、豪邸のような人は掃除夫を雇いたいくらい手入れが大変だろう。
それぞれに利点があり欠点があり、借り物のボロアパートだから駄目だとか、豪邸だから立派(まあ、立派は立派なのではあるが)である、住み心地がいい訳ではないと思う。
自分がどんな建物かを見極め、それにあった暮らし(生き方)をすれば、案外どんな建物でも居心地が良いのではないだろうか。

そして、もしその中の一つの部屋が汚く汚れてしまったら、掃除するのもいいが、目まいがするほど汚くなってしまったら、とりあえず、その部屋の事は忘れて、別の部屋で過ごす事を考えてもいいんじゃないだろうか?
もし、別の部屋がなかったり、台所も風呂もトイレもゴミで溢れかえってしまい、足の踏み場もなかったのなら、誰かの庭を借りてテントを張るのもいいかもしれないし、時には路上にダンボールを引いて夜を明かすのもいいかもしれない。
ただその時は酔っ払いには気をつけてね。


と、まあ僕という人間はいつもこんな事を考えている訳なんです(;´_`A


はかなさなのか切なさなのか虚しさなのか

仕事帰りの地下通路、高校生が我が物顔で場所を占拠しでかい声で騒ぐ。その横を真新しい制服に身を包んだ日焼けした皺だらけの老人がゴミを集めて笑顔で歩いている。

戦後に生まれ、大した選択肢も無く、終身雇用を当たり前と信じ生きてきた大人が食べていく為に働いている。

誰を恨むでもなく、「しゃーない(仕方ない)」とでも言うかのように、毎日暑い中汗水垂らして働いている。

一方でまた、心の病に陥り生きる希望をなくし、生きていく意味さえ失い途方にくれオーバードーズをし、リスカをする者もいる。

会社の帰り同じ駅で降りる盲目の年配の方がいる。最近視力を奪われたであろう拙い杖さばきと遅い足取りで家路に帰る。おそらく仕事帰りであろう。糖尿病か何かで視力を失ったのかもしれない。
電車を乗り継ぎ仕事場へ向かい、労働をし、時には寄り道をして帰るのか残業なのか、7時頃に着くはずの駅に10時頃見かける時がある。


それぞれの人がそれぞれの人生を生きている。何が正しい訳でもなく、誰が立派であるとかではなく。ただ毎日を生き抜いている。
人それぞれに描く幸せがあり。人それぞれが思い描く理想がある。

不平不満を言ってしまえば悲しくなる。

「この先俺達どうなって行くんやろなあ」
「この歳になってなんで働かにゃならんのや」
「好き好んで病気になったんちゃうわ」
「少しでも視力が回復してくれれば、こんな苦労をせんですむのに」

でも、それでも人は今日一日を生き抜いている。
明日どうなるか分からないけど、でも心のどこかで明日に『何か』を期待しながら今日を生き抜いている。

学生は老人を蔑み、老人は幼子を連れた夫婦を羨み、病んでしまった女性は過去を振り返り、盲目の男性は光に憧れ、それでも人は一日を生き抜いている。

金持ちを羨むでもなく、政治家を恨むでもなく、ささやかな、ほんのちっぽけな、わずかな光を心の奥底に持ちながら、生きている。

今日一日、誰とも話さずにいたかもしれない。
今日一日、家から一歩も出られなかったかもしれない。
今日一日、街角に咲く花に気付かなかったかもしれない。

それぞれの人がそれぞれの生き方をして、それは人に自慢出来る生き方でもないかもしれない。人に奨められる生き方でもないかもしれない。
もしかしたら後ろ指を刺される生き方なのかもしれない。

しかし、それでも今日を生き抜いた人達は称賛に値すると思う。
「たかがそんな事で」と思うかもしれない。
でもそれは今日一日を生き抜いたからこそ言える言葉である。
今日を生きれなかった者には口にすることの出来ない、貴重な言葉なのだと思う。



今日を生き抜いた貴方に、彼に彼女に、他人に、僕に拍手をしよう。


人って

どうして良いときを基準に物事を考えたがるんだろう。

あの時は頑張れたとか、
あの時は100点取れたとか、
あの時はもっとモテてたとか、稼げてたとか。

良い時の方が偶然、まぐれで、悪い弱い今が自分の本当の姿だって思えないんだろう。


さまざまな状況が重なったりして、打ちのめされてしまう時は多々ある。この日記で弱音を吐いた事も一度や二度じゃない。

もう駄目だって思う事もたくさんある。
この世に独りぼっちだって幾度となく思う。

それを隠して懸命に働くことだってある。

でも、それが自分の底辺だって思うのならそこから始めればいいじゃん。
それが自分のスタートラインだって気付けば後は登るだけやん。
なまじ100満点、完璧を基準にするからその落差を目の当たりにして落ち込むんじゃん。


彼女に振られて落ち込んだ時、付き合ってた頃の幸せな日々を基準に考えるから苦しくなるんやん。彼女がいなかった日々を基準にすれば一年だか一ヶ月だか分からないけど、その期間を楽しく過ごせた、幸福を一ヶ月間味わう事が出来た。死ぬまでに味わう幸福が一つ増えたって考えれば、独りぼっちの今はそれほど悪いもんじゃないと思う。

底辺に戻ったのならそこからまた始めればいいだけやん。


なんてちょっと考えてみた。

まあ、そんなにうまく考え方を変える事はたやすい事ではないのだけれど、いろんな物事、出来事を少し違った角度から見たら、少しまた違う景色が見えるかもしれないね。


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