もぐぞうのあなぐら

周りの人達と上手く渡り歩けないもぐぞうが日々感じたことや考えを思うままに書き連ねます。

2014年06月

日本という国

今日、Gunosyで面白い記事を見た。

http://number.bunshun.jp/articles/-/821139

内田篤人選手についての記事です。
内田選手はこう言っている。

「自分たちのサッカーが出来れば勝てると思うのか、相手が自分たちのサッカーをさせてくれないくらい高いレベルと思うのか、それは人それぞれだ」と話していた。

「W杯は勝つことが目標なのか、自分たちのサッカーをすればOKなのか? それは選手だけじゃなくて、見ている人もそうだし、一人ひとりの考え方でしょう」


結局考えてることは、それぞれ考えていて、

メディアに載るのはその一部分、表面でしかない。

その表面を見て、「努力が足りない」「覚悟が足りない」と論じるのは簡単である。

しかし、その表面だけで、人を非難するのは愚かだと思う。


僕は阪神タイガースが好きで、阪神ファン特有のアンチ巨人です。

しかし、巨人ファンは阪神なんて眼中になくアンチ阪神はいない。

アンチ阪神ファンは多数いるだろうけど。

同じ事が韓国と日本の間にもあるような気がする。

阪神ファン全てではないだろうが、僕自身阪神の試合を見ているといつも不安で仕方がない。

「また三振するんじゃないか」

「また打たれるんじゃないか」と。

一方で相手チームの打者が打席に立つと、例え1割台の選手でも打ちそうな気がするし、

相手チームの防御率が悪いピッチャーでも抑えられそうな気がする。

そしてその予想は見事に当たる。

三振やゲッツー、ホームランを打たれたシーンが脳裏をよぎる。

負のイメージしか起きない。

もっとも、そういうイメージの方が脳裏に強く残るからそう思うのだろうし、

それ以外の好結果の時もあっただろうが、さして残っていなかったりする。


これと同じ事がWBCでも起きる。

日本代表選手が打席に立つと、マウンドに立つと

普段は阪神がやられている選手なのに打たれるイメージや押さえられるイメージが湧いてくる。

それが僕の気質なのか、日本人の気質なのかは分からないが、

勝負に対する負のイメージというものは常々つきまとう。

これが選手として現場にいるのなら、そのイメージを払拭する為に努力をするのだろうし、戦術を練るのだろう。

ただ僕が感じるのは、

確かにヨーロッパで活躍するサッカー選手だって負のイメージはあるだろうし、プレッシャーも多分にあるだろう。

前回大会だったかメッシが活躍できず非難を浴びたこともある。

海外は日本ほど優しくなく、ひどいコメントを浴びせる。

ちょうど今日、ヤフーニュースに出ていた。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140627-00000011-dal-socc


日本人が好きそうな記事である。

昨日の長友の会見での涙をこらえてたシーンもそうで、こういうシーンには目頭が自然と熱くなる。

これが日本人の気質なのかもしれないが、

こういうところは日本人の良いところでもあり、悪いところでもある。


1994年フランスW杯で予選敗退で帰ってきた城彰二選手が水をかけられたこともあったが、

基本それほど、海外ほど批判の矢面に立たされることはあまりない。

負けて帰ってきても拍手で迎えられることの方が多い。

大らかなのか、寛容なのか…。

海外ではオウンゴールをしてしまった選手が射殺されたこともある。

この民族性の違いがどうこうというのではなく、

島国で、他国からの侵略に対し海がある分、警戒レベルがさがる国と、

フェンスや壁一つで区切られいつ攻められてもおかしくなく、

他民族、他国を信用できず、狡猾に生きることが生き抜く術だと教え込まされている国では根本的に全てにおいて違うと思う。

そういう島国社会で育った民族、国は基本的争い事、勝負事に対して、

勝たなければ死ぬという考えが根付いてないのかもしれない。

どこかに「次がある」という前提があるから徹しきれず、簡単に負のイメージを脳裏に呼び起こすことが出来るのかもしれない。

それが死と直結しないから。

あくまでも勝負は楽しむ為のもの。

否、勝負というものを楽しめるほど安心した社会で暮らせているということではないかと思う。

生死の危機感に襲われることはそれほどない。

いくら夜道を一人で歩いては危険だと言っても、その実それほどの危機感はないと思う。

「万が一に備えて」のレベルだと思う。

これが紛争地域や治安の悪い国だと「夜中に外を歩く人間が悪い」が常識となる。

そういう価値観の全く国同士が戦うと、やはり普段から危機感を持たされているものといないものでは根本的に出せるパワーが違うと思う。

もちろん島国じゃない国も多く負けているし、島国国家の方が圧倒的に少ないのだから、

こんな理論は成り立たないのではあるが、それでもそういう要素も一つとして考えられるのではないかと思う。

自分らしいサッカーって何?

日本の敗戦から一夜が明けました。
負けたことはとても前年で悔しいのですが、勝負事なので致し方ありません。
しかし、新聞やネットのニュースを見ていて気になることがあったので書きます。

それは「自分らしいサッカーが出来なかったのが残念。」とか
「自分のサッカーをさせてもらえなかった。」という『らしさ』に関わる言葉です。
くしくも大久保が言ってます。
サプライズ選出で選ばれて「選手みんなが「自分たちのサッカー」「日本のサッカー」って口にするのが気になった」と。
「自分たちのサッカーって何?」「勝つ為にはどうするかじゃないの?」という風な言葉が新聞などで見た。
ネットで調べていたらこういうのもあった。
http://brazil2014.headlines.yahoo.co.jp/wc2014/hl?a=20140625-00000282-sph-socc

W杯やヨーロッパのサッカーを見て思うのは、個人が強いということです。
シュートやドリブルなど技術が上手いこともそうですが、
よく走るし、少々ぶつかられても倒れません。
また、エゴイスティックなまでに自分をアピールするし、
かといってしっかり守るし、ボールを取りに行く。
こういうフィジカル面では確実に日本は劣っている。
だからこそ「日本のサッカー」という偶像ができあがってしまうのだと思う。
フィジカルで負ける日本のストロングポイントは組織力とアジリティというわけだ。
しかしながら、果たしてそれは本当に日本のストロングポイントだろうか?
ブラジルが攻撃的という印象を受けるが、
しっかり組織だって守りをしている。
俊敏さにしたって、昨日のコロンビアを見ても分かるように日本の選手がついて行くのがやっとというレベルで、
その上で正確で力のあるシュートを打つのである。

結局の所、日本は全ての面においてヨーロッパ、南米各国に負けているのである。
ただ、勝負の世界、何があるか分からない。
あのイタリアやイングランドだって予選敗退である。
なんか巷ではこんなことがネットで書かれているらしい。

http://matome.naver.jp/odai/2140365606085890801

いやいや、あんたらが勝手に応援しただけだろ?
勝手に起きて観ただけだろ?
それを人のせいにするのかよ?
そしたら、渋谷の交差点で暴動が起きるのは日本代表のせいなのか?となる。
ましてや「日本の恥」なんてよく言えるなあと思う。
日本代表のステージにも立てない無能力者が偉そうに何を言ってんだか…。
日本代表は精一杯やった。
精一杯やった結果が0勝2敗1分という成績である。
それが現実であり事実なのである。
それ以上でもそれ以下でもないし、それが戦う前から気付かなかったのならそれはあんた達の目が節穴だったってことだけだろう。
勝負事だから何が起こるか分からない。
そのドキドキや緊張感、ハプニング、そういうことに期待して生中継を見ているだけなんだろ?
僕は日本代表選手の誰もファンに謝る必要もないし、胸を張って帰ってきて欲しいと思う。

それと、結局は「日本のサッカー」とやらの幻想を早く消し去ることだと思う。
「日本のサッカー」なんてやっても勝てないのは過去5大会を見てもよく分かる。
要は『勝つ為のサッカー』を目指すべきだと思います。
11人でやるチームスポーツだから組織というもの大切ですが、
まず世界に通用するサッカーのビジョンを掲げ、そこに選手を当てはめる方がいいのと思う。
そして、そのバラバラな個の集団を日本独特の勤勉さや丁寧さで埋めていく方がいいと思う。
具体的にどうするかは、はっきり分かりませんが、もっとエゴイストの集まりでいいと思います。

もちろん日本サッカー協会は僕のこんな意見なんて百も承知で、だからザッケローニ読んだと思うのだが、
基本コンセプトは同じなのに、できあがってしまうと思ったものと違うものができあがってしまうことなんてよくあることです。
昔に比べたら、日本人選手が海外で、それも強豪チームに入って活躍することが多くなりました。
これは確実にレベルが上がっている証拠です。
しかし、これには見落としがちな点があります。
活躍している日本選手の周りには一流の外国人のプレイヤーがいるということです。
もちろん、本田選手や、長友選手は素晴らしい能力を持った選手ですが、
それを活かす周りの選手も凄く、また、日本人選手が活かす外国の選手も素晴らしいのです。
ちょうど、初戦のコートジボアール戦。
前半はほぼ5分の戦いをしていました。
しかしドログバが入った途端チームは変わり、まったく歯が立たない相手になってしまいました。
ザッケローニにしてみれば、それは日本では本田であり、長谷部であり、長友だったのでしょうが、そこが違いました。
本田や長谷部こそがドログバに活かされる側の選手なのです。
つまり、日本にはドログバに替わる選手がいないのです。
でも、そういう選手はすぐには出てきません。
ようやく日本がW杯に出られるようになって5大会です。
まだまだ歴史が浅いのです。
それは、喜びの数とともに苦しみや悲しみの数も少ないのです。
つまり大舞台での経験値が少なすぎるのです。
もっともっと色んな経験を重ねなくてはいけないと思います。
それでも、確実に1994年アメリカW杯の頃と比べても数段レベルが上がっています。
当時オフトが標榜した「アイコンタクト」、「スモールフィールド」、「トライアングル」、「コーチング」、「スーパーサブ」などのサッカー用語は、もう当たり前になりました。
そんな次元のサッカーはしていません。
しかしそれでも、同じように世界もレベルアップしているのだから、
同じ動きでは永遠に追いつけません。

アギーレという方が次期日本代表監督として名が上がっていますが、
僕は、個人的にストイコビッチやベンゲルに監督をやって欲しいなあと思います。
まあ、単純に好きだという理由だけですが。

何が分からないのかよく分からない

昨年会社を辞めたのが6月14日だったと思う。
あれから1年が過ぎた。
当初、もう会社勤めは出来ない年齢だろうとフリーでやることを考えていた。
もちろん、会社勤めより厳しい世界だと言うことは分かっている。
そのため、紙媒体のデザインだけではいけないとwebの学校にも行った。
受験やら何やらで、入学したのは会社を辞めて3ヶ月後の9月。
その間、結局何もせず、ブラブラしていた。
営業に回るでもなく、webの勉強をするでもなく…。
友達の仕事の手伝いを16時から2時間ほどしていたくらいだ。
朝は一応7時に起きるもののその後、また寝てしまったりしていた。
そして、学校が始まる。
三ヶ月という短期間の学校だったが、担当の講師がよく中身の濃い三ヶ月だった。
授業の中で、「グラフィックの経験があるならすぐ(就職が)決まりますよ」と言われたのもあったし、
自分自身初めてに近いカタチでwebを勉強して、その面白さにはまったこともあり、
webデザイナーとしての就職を探すようになった。
13年ほど前、職業訓練校で少しの間webの勉強をしたが、
当時、webに興味はなく、グラフィック一本と絞っていたので、
授業は聞いていたがそれほど記憶には残っていない。
12月、1月と年末年始と言うこともあり求人数も少なく、就職活動らしい就職活動も出来なかった。
彼女が、11月下旬に事故ったこともあり、病院に連れて行ったりなど、
いろいろと慌ただしい二ヶ月だった。
2月になり、何件か面接を受け、課題を出されランディングページなるものを作りはしたが落選。
3月、4月は面接にを受けるも決まることはなかった。
また、消費税アップということで、今年車検の車から乗り換える為の算段もしたりした。
5月になるとG.W.になり、恒例のキャンプに滋賀県はマイアミランドに行った。
その後、5月8日にようやく車が来て、慣らし運転がてらドライブ。
梅ノ木キャンプ場の悲惨さを知り、新たなキャンプ場を探しに行った。
気がつけば6月。
W杯が始まり、日本は苦戦を強いられている。

webの勉強を学校でたった三ヶ月勉強しただけでそれ以降は何もしていない。
やろうと思っても何をしていいのかが分からない。
webの仕組みは分かっているのだが、未だに教科書がないとマークアップできない。
ホームページを創ろうと思うのだが、どんなページを作ったらいいのかがわからない。
で、まあ、何もしないよりかはマシかとブログを始めてみるが、日記程度で終わってしまい何も進展はしていない。

その事を、以前言っていたwebの学校の先生に相談すると、
「ブログをやっているのだから、そのまま移行すればいいんじゃないですか?」が何のことかさっぱり分からない。
話をしているときはWordpressに記事をコピペすればいいのかとも思ったのだが、
そのWordpressをどうすればいいのかが分からない。
「自分のドメインでブログを書いた方がいいですよ」と言われたが、
ホームページをブログにする方法が分からない。
ただ、トップページをマークアップする際にブログの文言を入れろということなのだろうか?

あるいは求人票には「URLをお持ちの方は、URLをお書き下さい。」と書かれているが
それは作品集を載せたURLの事なのだが、どう載せればいいのかがよくわからない。
今までの実績はあるが、PDFではなく実物しかないし、
一応ポートフォリオのためのスキャンデータはあるがそれでいいのだろうか?

自分自身、デザインに忠誠を誓えるほどの思い入れはなく、
テレビでデザイナーのドキュメンタリーなんかをやっているが、あそこまでストイックになれる自信がない。
というかなれないと思う。
職業デザイナーみたいなもんだ。休みはしっかり休みたい。
もっとも仕事が来ればずっとデザインのことを考えざるを得ないのだが、
今の感覚では細々とやって、生活できるだけのお給料をもらえればいいくらいの考えしかない。

今日久しぶりにPhotoshopを思うように使いこなせない。
年々バージョンが上がっていてツール一つとっても場所が違うのである。
ということで、教則本を読んだが、まだ初めの方で知っていることばかり、
こんなんなら、卒業した次の日からやればいいものを、何故しなかったのか、何故出来なかったのかがわからない。
おそらくやる気がなかったのだろう。
仕事が決まれば忙しくなるだろう。
と、すぐ就職が決まることを楽観して遊んでいたのだろう。
そんな今でさえ、集中力は続かず、今日も3時間程度本を読んだ程度である。
やる気を起こそうと録っておいた「プロフェッショナル仕事の流儀」等を見るが、「凄いなあ」という感想しか起きない。

会社を辞める数年前から、デザインに対する情熱はなくなっていた。
昨日の日記にも書いたが、職業訓練校に行っているときや初めてのデザイナーとしての会社には情熱を持っていた。
辞めた会社に行った当初もそれなりのやる気を持って仕事に臨んでいたが、それがいつの間にかなくなっていた。
それは常々感じていて、どうすれば、デザインとか関係なくても情熱を持って生きることができるのかは僕のテーマであったりもする。
人生に情熱は必要かを問われれば、躊躇するが、
情熱を持って生きた方が楽しいし、モチベーションにもなるし、何より、毎日が活気づくと思う。
どうすれば情熱を持てるのだろうか?
それには、目標なり、夢が必要だと思うし、そうなると僕の目標なり、夢とは何だとなる。

そこでフリーズしてしまう。


ふと、僕は受動人間なんだなあと思う。
自ら何かをしようと動くことより、人に動かされることを待っているタイプだと思う。
自らリスクを応覚悟を持ったり、労力を使って何かをしようとしないのである。
極力、低労力で最短時間で低コストが理想だと思っている節がある。
要所要所だけ動くだけがいいと思っている。
無駄な浪費は押さえたいと思っている。
その癖、車を買ったり、読みもしない本を買って並べたりと見栄だとかプライドだとか収集癖だとかがあってややこしい。

テレビも映画も好きだし、漫画も音楽も好きだ。
どれも受け取るだけの作業ばかりだ。
そういえば、音楽というのは、使うのは耳だけという最もローコストパフォーマンスの芸術ではないだろうか。
そんなことはどうでもよく、とにかく自ら動いて何かをするということに対しては元々昔から消極的であったと思う。
小学生時代も自ら友達を誘って遊ぶこともあまりしなかった。
それは年を経るごとに多くなってきたし、高校を卒業してからはほとんど自分から誘うことはなくなった。
しかし、さすがに、幼稚園や小学校低学年ではよく外に遊びに行っていた記憶があるから、
何かしらの理由があったのかもしれない。
今それを考えて思うのは、自分家が貧乏だったというのもあるかもしれない。
遊びに行く先々が金持ちで、裕福に見えてうらやましくそれが嫌に感じだしたのかもしれない。
あるいは小遣いを「日曜日しか使ってはいけない」と教え込まされ、
ましてや買い食いなんかはとてもとても考えられなかったので、
周りと同じように買い食いが出来なくて避けるようになったのかもしれない。
もっとも今にして思えば、ちゃんと親に断れば許可は出ただろうし、
わざわざ許可を取らなくても、勝手にしてれば何も言われなかっただろう。
そういうところに親からの見えない呪縛を感じることがある。

ついでに昔の事を書こうと思う。
幼稚園の頃、知的障害者の友達とよく遊んでいた。
そこのお母さんがとても綺麗だったことをよく覚えている。
なんの抵抗もなく、ただただ自然に遊んでいたし、それに疑問も抱いていなかった。
それから、僕は引っ越し、小学生になったときたまたま地元の駅のフォームでその家族に会った。
まったく記憶から消えていた友達とお母さんだったが、すぐ思い出した。
ただ、その時、昔のように無垢な状態ではいられなかった。
よく遊んだその友達との間に見えない壁があるような気がした。
知的障害の彼は僕の事を覚えていないかもしれないし、
覚えていたとしても壁を作るような人ではない。
僕が、僕自身が勝手に作ったのである。
それは、気持ち悪いとか変だとかいうのではない。
そんなことは、他の人とは違うことは幼稚園児の僕でも分かったし、
それを受け入れるとか、拒否するとかそんな感情は当時何もなく、
ただ友達として一緒に遊んでいただけなのである。
何をして、何を思って遊んでいたかは今となっては分からないが、本当に当時はそうだったのである。
それが数年すると、「抵抗」といってもいいような感覚が僕の中に存在したのである。
2つ程先の駅でその家族と別れたが、その時抱いた自分自身に対する違和感は今でも時折蘇ってくる。
それが、自我の芽生えだとか精神分析官はいうかもしれないが、
それは僕の中では自分自身が「汚れてしまった」ように感じられた。
何故昔のように話せなかったのか。
その時僕はたぶん、そのお母さんの質問に答えるだけが精一杯で、何もその友達に対してしゃべれなかったと思う。
あるいは、今ばったり駅かどこかで逢ったとしたら、上から目線で社交辞令の言葉を返すだろう。
幼稚園児のままの心根が正しいとは思わないが、
少なからずその友達を受け入れるのに心づもりがいるような人間になってしまっていたことにショックを受けたのは事実である。

ちょっと僕の事でも…その2

32歳になり、鬱病患者と認定されてしまった僕は何をするでもなくただ、会社と自宅往復の毎日でした。
そんな中、ようやくこんな僕にも彼女が出来ましたが、
どうも3ヶ月以上続きません。
それを彼女と言っていいのかはよく分かりませんが、とにかく続かないのです。

初めは楽しい人、面白い人と好印象を抱いてくれるようですが、
徐々に僕の本性を分かってもらいたいと、負の部分を出していくと途端に雲行きが怪しくなっていきます。
もちろん、それだけではありません。
ちょっとした会話の中で、僕はどうも地雷を踏む癖があるようです。
言葉で人を傷つけるきらいがあるようです。
あるいは向こうが怒って何かを言い出すと僕は反論するではなく黙り込んでしまい、
何も話さなくなるようで、それも気に入らないそうです。
っていうかそもそも、何をそんなに怒っているのかが分からない為、理解が出来ないのです。

例えば普通の会話の中で、向こうから
「食べてるところを見られるのと、トイレを見られるのと、裸を見られるのとどれが一番嫌?」
と聞かれたことがあります。
僕は
「食べてるところをマジマジ見られるのも嫌やけど一番って程ではないなあ。
裸も、彼女とすることしたら見てる訳やし、一緒に風呂入ったら見る訳やし全然嫌じゃないなあ。
そうなるとやっぱトイレが嫌かあ」と答えました。
すると彼女は
「え~、私はやっぱ裸やわ。裸は嫌やわ~」というので、
「え?え?え?なんでなんで、意味わからんわ。やることやっといて見られるのが嫌なんて意味わからんわ。」
と言いました。
そこに地雷があったようです。まもなくして彼女と別れました。
どうもその言葉遣いや自分を否定されたことが受け入れられなかったようです。
そうなると、彼女の方も今まで我慢していたのか、僕の気になる点を次々言いだしてきました。
つまり、「今まで私だって我慢してきて、あなたの色んな所を受け入れてきたのにそんな言い方はないやろ!?」と言うのです。
さっぱり意味が分かりません。
いままで、そんなに我慢しながら付き合ってたん?
全然そんな風には見えなかったけど、気付かなかった俺が悪いって事?

結局、何人かの女性とお付き合いしたが似たり寄ったりの理由で、3ヶ月保たずに別れてる。
それが、今付き合ってる女性は8年目になってる。
もちろんご多分に漏れず2ヶ月で別れたのだが、おかしな流れでまたヨリを戻した。
その後も何度か別れたのだが何故か今も続いている。
正直ウザイと思うことは多々ある。
用事もないのに電話してきては自分の話をして終わることもあるし、
理由もなく週末彼女に会わないと機嫌が悪くなる。
今も喧嘩中である。

木曜日に派遣会社の面接に行った帰り、なじみの店に久しぶりに呑みに行ったのだが、
その時彼女から電話があったのだが、無視をした。
ちょうど店にいた人達と話をしている最中で話の流れを切るのは悪いと思い無視をしたのだが、
Lineで彼女も知っている店で呑んでいることを告げると
「大事が話が合ったのに…」と返してきた。
電話し直そうと思ったが、本当に大事ならもう一度かけてくるなり、用件をメールで送ってくるなりするだろうと放っておいた。
結局その日は電話もメールもなく俺は家に帰って寝た。
かなり寄っていたのか夕方の17時近くまで寝ていた。
そしてその晩に彼女からの電話があったが、どうせまた怒りを俺にぶちまけるのだろうと鬱陶しくなって無視した。
するとLineで彼女の親のパソコンのパスワードを教えて欲しいと入ってきて、
僕自身うろ覚えだったので無視をすると、彼女の子供達から電話が鳴った。
「なんや、私の電話には出れへんのに子供のは出るんか」と言われるのも鬱陶しかったので無視をすると、
同じ質問がLineで来たのでしばらくして思い当たるパスワードを送った。
その日はそれだけで終わり、今日になって電話が来て仕方なく出た。
案の定向こうは怒っていた。
向こうの言い分も確かに分かる。
何故すぐに電話をかけてこなかったのかと言われたが、
「大事が話が合ったのに…」と書いてあったから
もう問題はどうでもいいと思い電話しなかったと言った。
本当に大事なら状況から判断して、もう一度電話をかけるなり、メールするなりするだろうに
それをしなかったのだからそれほど大事ではないとこちらは判断したのだ。
これはよくあることで、
「凄いことがあった」だの頭にこういう語彙をつけるときに凄かった試しがないのである。
大げさに言いすぎるきらいが彼女にはあるし、
彼女だけではなく、僕が知っている女性の多くはそうである。
とにかく自分中心で、周りを振り回し、自分を見て!!というタイプが多く感じる。
もっとも、僕自身も自己中なのは重々承知だが、それで周りを振り回すことはあまりない。

彼女の怒りはその件に留まらず、僕の先輩の話にも飛び火した。

その先輩は僕を京都に戻してくれた、建設会社で一緒に働いた先輩なのだが、
昨年に悪性リンパ腫になり、しかもT細胞性で最悪のパターンの癌になり予後不明といつ死んでもおかしくないと判断されているのである。
年末から年始の治療の結果一応癌細胞はないとされてるが、
最近血便が泊まらず、白目をむいて救急車で運ばれることも度々あり、
先週も救急車で運ばれた。
その際家にいたのでパジャマのままで救急車で運ばれたものだから着替えがないということで、
土曜日に退院だから車で家まで運んで欲しいと電話頼まれた。
ちょうどその時は彼女が日曜日に伊吹山に登ると言っていて、
僕もいい加減webの勉強をしないとこのままじゃ、ちゃんと働けないから、
週末は勉強すると言っていた日だったので、オッケーしたのだが、
彼女にしたらそれが許せないらしい。
勉強するなら仕方ないと、合わないことを了承したのに、
勉強もせずに友人に会うんやったらウチに来い!と言うのである。
明日死ぬかもしれへん人が困っているのにそれ以上に大事な事って他に何があるというのか!理解できない。
彼女曰く「家族の仕事やろ」と言うのである。
いやいや、どんな事情か知らんけど家族が出来るならわざわざ俺を頼る訳がない。
よしんば家族が出来るとしても、僕にわざわざ頼むというのは、
もしかしたら、少しでも僕の顔が見たいだとか、家族も疲れてるから俺に頼もうとか何かしらの意図があるわけで、
それを簡単に「家族の仕事やろ!」という考えが理解できない。

女性全般がそうだとは思わないが、彼女は相手を慮るということが出来ないのである。
相手が起こした行動に対し直接感情をぶつけるのである。
僕なら、何故そんなことをしたのかをまず考える。
その上で、理不尽であったり、何かしらの悪意があったのならば怒りもするだろうが、
ただただ自分に対して不利益な行為があったからといって怒ることはない。
男性女性に限らず彼女ような行動を取る人はいると思うが正しいとは思わない。
僕のそういう考え自体が間違っているのかもしれないし、
それを踏まえた上で優しく接してあげるのが男というものだと言う人もいる。
正直、そこまでせなアカンか!?と思う。
至れり尽くせりでないと人と人は良好な関係を続けることが出来ないのか?

人は相手の立場になることは出来ないし、
なったところで感じ方は人それぞれだから無意味なことだけれど、
相手の立場になって考える事は出来るはずである。
たとえ、それがその人の考えと違ったとしても、そうすることで分かることや気付くこともあるだろうし、
その事で、自分の高ぶった感情を抑えることも出来ると思う。
丸一日という時間をおいてさえ、怒って電話して自分の言いたいことをぶつける精神が僕には理解できない。

だったら、そんな女と別れてしまえと言う人もいるが、
もう家族ぐるみで付き合っていて、その為に彼女は嫌な自分の実家に帰って僕が引っ越してくるのを待っているのである。
その経緯はいずれ書くことになると思うが、今回はやめておく。
ある既婚者は、「結婚なんてそんなもんやで」と言うし、
実際結婚生活が楽しいという人に逢ったことがない。
子供の成長を見るのが楽しいという人はたくさんいるが、
子供がいなかったらとっくに別れてるという人もよく見る。

何なんだろうと思う。

そうまでして結婚する意味が見いだせない。
結局、世間体もあるのだろうと思う。
この歳で独身だと昔ほどではないにしても、やはり世間の目は冷たいところがあるし、
結婚しない人はある種の社会生活不適合者のような目で見られる。
もっとも僕が勝手にそう見られてると思い込んでいる節もあるし、
特に、無職の僕は肩身が狭く外に出るのも躊躇われるのも事実である。

一方で少子化がメディアで騒がれて久しいが、
子育ての環境だとか、男女の出会いだとかまことしやかに取りざたされているが、
その根本の男女の価値観が多様化して、
簡単には相容れないものになっているのも要因の一つではないかと思う。
男女という区切りではなく、人の生き方としての価値観が多様化して、
一方で個という存在も大切にされ、「自分らしく生きる」ことが基本だと刷り込まれてしまうと、
自分らしく生きる為に果たして結婚は必要か?彼女は必要か?ひいては友達は必要か?と自分に問いかけてしまう。
昭和の時代、まだ選択肢も少なく、凝り固まった固定観念で、宗教信者のように「こうあらねばならない」「こうあるべきだ」と無心に信じられる時代ならよかったが、
こうすればこうなり、こうしなければこうなるという道筋が明らかにされてしまった昨今では、
簡単に今までの事例を鑑みて同じよな生き方が正しいとは素直に思えなく、信じられなくなっている。
だからこそ未婚者が増えているのかもしれない。
もっとも結婚して、子供を育てるのに素晴らしい環境が日本にはあるとは言えないが、
それ以上に劣悪であった環境で人は子供を産み育てた。
そしてその子供達が大人になり、子供を育て、同じように生きてきたにも関わらず、
時代と共に社会が変わり価値観も変わってしまっている事実もある。
もちろん、統計を知らないので正しいかどうか分からないが、
結婚した人達は不妊に悩む夫婦を除い子供を産む割合は多いのではないかと思う。
僕の周りでも二人、三人と産んで育てている人が多数いる。
つまり結婚した人の多くは子供を複数産むが、結婚しない人が多いから割合的に少子化になっているのだと思う。
とすれば、結婚さえすれば子供は増えていくのだが、
僕のように、些細な男女間のやりとりですら鬱陶しく面倒だと思う人が多いならば結婚という状態は
なかなか受け入れがたいものになってしまう。
もっとも彼女はバツイチで子供も二人いるし、お互い44歳でこの先子供を作るつもりはないのだが、
男性の女性に対する価値観や、その逆の女性の男性に対する価値観が変わるなり、歩み寄ることがなければ、この先少子化は何をしたって進行していくと思われる。

僕と彼女の喧嘩から少子化に話が逸脱してしまったが、
そもそも現状の不利益さを享受できるほど人はおおらかでなくなったのかもしれない。
僕自身を鑑みるに、何かに追われている感は中学の頃かずっとあるし、
親に対し反抗的な態度を取ることはよくあるが、それでも心のどこかで親の価値観が正しいと信じ込まされている節がある。
よくテレビで親や、嫁や恋人を殺すニュースが流れるが、
結局は最も精神的にも、物理的にも殺すことでしか逃れられないと強迫観念に襲われたのなら
そうせざるを得なくなるという考えは分からないでもない。
ちょうど昨日観た「CURE」という映画のテーマがそうであったように
本当の意味での「癒やし」というものが、その存在から離れることではなく、この世から消すことでしか得られないとするならば、その狂気に走ってしまうことはあながち笑えないない事実なのかもしれない。

もちろん、彼女や親に対して殺意などある訳もなく
ただただ鬱陶し存在、自分にまとわりつく面倒くさい存在でしかないのだが、
一方でそういう存在に自分自身が救われている現実も忘れてはいけない大切なことだと思う。

彼女の怒りや、なんのオチもない話に不快感を抱くことがあっても、
キャンプに行ったときのリラックス感は他の人では味わえないし、
ちょっとした振る舞いでさえも「癒やされている」だとか「救われている」と感じることもあるし、
親に対してだって、いろいろ思うところはあるが、老後の面倒は僕が見なくてはならないと思うし、
それに対する抵抗感というものはまだない。
逃れられない現実だと受け入れているし、腹もくくっている。
ただ、その時その時の感情が自分を違う方向へと押しやって、その正しさが分からなくなってしまうのも事実である。

なぜ、相手を信じて待つということができないのか?

その事に苛立つことが増えると、不快感しか残らないのである。
今は僕が告げることで、目立ってやることはなくなったが、
以前彼女は平気で男友達と二人で呑みに行き、
それを悪びれることもなく僕にその話をする。
一方で僕が男友達と遊びに行くことさえ受け入れず、不平不満をあからさまにぶつけてくる。
それを直接言わなかった僕も悪かったのだろうが、
それに気付かない彼女の価値観が理解できないし受け入れられないのである。
「なんもない。あるわけないやん。○○は友達やねんし」と平気で言うが、
それを言うなら、「こっちなんて単なる男同士の友達やねんから、なんでそんなことでとやかく言われなアカンねん」となるのは当然だと思う。
ましてや、「男友達と二人きりで遊びに行くな」と注文を付けたところで、
僕が、男友達と遊びに行ってはいけない理由にはならないのに、それを理解できないと言うことが僕には信じられないのである。
それを一から説明しなくてはならないという面倒臭さを彼女は考えもしないのである。

彼女自身、精神を煩っていて病院にも通っているから
一般の女性とは違うということを加味して僕はある程度まで我慢をしているが、
時として感情的になりその病気のことを忘れひどいことを言い、傷つけてしまい、
自分自身反省し、その事で、自分自身をも傷つけてしまっていると感じている。
かといって、僕の数少ない経験から考えても彼女自身が特別理不尽なことを僕にぶつけているとは思っていない。
女性自身が理不尽な生き物だとも思うし、
男性にしたって女性から見たら理解不能な生き物だと思う。
そんなお互いをどこまで受け入れられるか、その寛容さだけがお互いを結びつけつなぎ止める繋がりになると思う。
相手に対しどれだけ寛容になれるか、
寛容になれる相手とのみ付き合うべきなのかもしれない。
しかしながら、お互い性欲という剥ぎ取り捨てがたい欲望を持って生きている以上、話はややこしくなってしまうのだが、
男性からの勝手な言い分だと思うが、
性欲の処理と家族としての繋がりを別のものとして考えられないのだろうかと思ってしまう。
もっともその論理で行くと、女性の側にもその理屈は適用されるべきで、
じゃあ「女性も浮気してええねんな」と言うとそれは受け入れられないという、
自分勝手、我が侭な男性側からの自己中心的な論理だと言うことが簡単に暴かれてしまう。

本当に男と女ってのは面倒くさい生き物である。

ちょっと僕の事でも…その1

僕は、高校を卒業して2浪した後、大学受験に失敗して一年間お金を貯めて埼玉に行きました。
アルバイトをしながら4年半を過ごし、友人の働いている会社に誘われて京都に帰ってきました。

それまでは本当にお金がなくて毎日がギリギリの生活でした。
もっともそれは自ら望んだことなので苦には感じませんでした。
今で言う中二病だったのだと思います。
高校受験を控えた高校三年生の時将来を考えました。
特別やりたいこととかなくて、働かずに生きていきたいと考えていました。
働くことが人生の無駄に思っていたからです。
その当時、働くと言うことは会社の歯車となり自分を殺してお金を稼ぐことだと考えていました。
なぜ自分の人生を人の為に費やさなくてはならないのか甚だ疑問でした。
それで、妄想癖(当時はそうおもっていませんでしたが)があり、
大好きだった漫画やアニメを観る度に「こういうものを創りたい」だとか、
「僕だったら、こうするのに。」
あるいは「こういうストーリーは面白いんじゃないか」とメモをずっと小学生の頃から取っていました。
今思えばとても稚拙なストーリーだったのですが、自分なりに考え創っていくのは好きでした。
そして、どうせ働かなくてはいけないのならそれを行かせる職業は何かを考えるとそれは漫画家でした。
絵を描くのも嫌いではなかったですし。

しかし、絵を描くことと漫画を描くととは当然ですが全然違っていて
描こうとしても表紙でつまづく有様です。(漫画の描き方を全く知らなかったのです。)
そんな自分の事も分かっていましたので、いきなり漫画家になると言っても全ての人から反対されるのは分かっていました。
もちろん自分も無理だと思っていました。
だから、東京で一人暮らしをしながら、漫画の勉強をすればどうにかなるだろうと考えました。
それがダメでも何かしら漫画に携われる仕事に就けるかもしれないと思いました。
そのためには出版社が集まる東京で暮らす必要があると考え、東京の大学に行くことを目標にしました。

僕の家は貧乏なので私立の大学、ましてや東京の大学なんて不可能だと思いましたので、
国公立大学にいかないと思い、高校受験は当時出来て二年目のⅡ類という公立の進学コースを選択しました。
高校も私立はお金がかかると思っていたので、公立しか考えていませんでした。
中学3年の時は必死に勉強し、第一志望の公立のⅡ類に合格しました。
高校1年の時から大学受験を意識して勉強していました。
そうでもしないと、大して頭のよくない僕は大学なんて、ましてや東京の国公立なんて無理だと感じていたからです。
当時は受験戦争とかいわれ、三流大学ですら受かるのが大変なくらい受験者数が多い時代でした。

漫画家は頭がよくないといけない、物事をよく知らないといけないと聞いたいたので、
受験勉強もその一環と考え苦にもなりませんでした。
そして、高校3年生になりいよいよ大学受験をみんなが意識するようになった頃、
ずっと勉強してきたせいか、息切れをして受験勉強が苦痛になってきました。
周りが受験勉強をし出すと当然周りの平均点もあがり、僕の偏差値は下がってきたのです。
それでも何とか当時の共通一次試験を受けましたが、逆転ラインギリギリで、
ほとんど受かる可能性はありませんでした。
そして合格発表の日、大学まで見に行きました。
東京を目指していましたが、東京近郊のどの大学も僕の共通一次試験の成績では無理で、
それは、その以前の模試の段階で分かっていたので、東京から遠く離れた茨城大学を受験しました。
不合格を覚悟していたので、僕はそのまま京都に帰らず東京に家出をするつもりで東京に来ました。
そして、不合格が確定しました。
その時、僕は分かっていたこととはいえとても悔しかったことを覚えていました。
このまま東京に残ることに対し、「逃げている」と強く感じました。
もう1年頑張ろうと思いました。
しかしながら、緊張の糸が切れたのかその1年は大した勉強もせず当然全ての大学に落ちました。
2年目はもう全然やる気がなく、受験を辞める理由、
「2浪して駄目だったんだからもういいだろう」という理由付けの為だけに勉強しているフリをしました。
全ての大学に落ちて、そそくさとバイトを始めました。
今度はお金を貯めて東京に行くことにしたのです。
当時バブル期で高額のバイトはたくさんあり、貯金して3月に友人を頼りに住む場所を探しに行きましたが、
無職の僕に部屋を貸してくれる人はいなくて、10月頃なら、部屋を貸してくれるところもあると聞き、
もう半年、東京に出ることを我慢しました。
そして11月、家賃等の兼ね合いもあり、埼玉に部屋を借りて過ごすことになりました。
もちろん漫画家になる為に埼玉まで来たので、
極力時間を漫画に割けるよう、夜勤で週三日だけ働く仕事を見つけ、そこで働きました。

当たり前の話なのですが、
漫画家になるような人は毎日漫画を描くことが楽しくて仕方のない人ばかりで、
僕みたいにな人が漫画家になれる訳がありません。漫画をちゃんと描いたことがないのだから。
いざ描こうとしても何から描こう、どうやって40ページに収めよう。
そんなことばかり考えて全く進みませんでした。
またバイトの収入自体も少なく生活するのがやっとで、画材すら買えない状況でした。
結局、なんだかんだで何も進展のないまま4年を無為に過ごしました。
何をやってんだと自分自身を何度もなじったりもしましたが、何が変わるでもない日々でした。
そういう「今やらなくてはならないことから、言い訳を見つけ出して逃げる姿」は未だに変わっていません。

そんな無為な日々を過ごし、自分自身の無力さだとか無能さだとかを思い知らされている時、
京都にいるときにバイト先で知り合った先輩が働いている建設会社に来ないかと誘われました。
こんな馬鹿な僕を必要としてくれているならと、半年ほどの猶予をもらい京都に帰りました。
その半年間はバイトも辞めて、最後の東京(埼玉在住でいたが)生活を満喫しました。
といっても、お金がないので何が出来る訳でもありませんでしたが、
何も変わらなかったことで、結局漫画家になんかなるつもりなんか初めからなかったことが分かりました。
単なる「かっこいい理由付け」程度の動機しかなかったのだと思います。

京都に帰ってきたのは27歳の時です。
今思うと27歳というと当然若いのですが、25歳を越えたあたりから30歳が節目だと何となく感じ始めていました。
「30歳はおっさんの入り口」そんなイメージがありました。
周りからも「彼女はいいひんのか?」と聞かれることも多々ありましたが、
それまで一人で生きてきた僕は女性と話すことすら苦手で、ましてや彼女なんてどうやったら作れるのかも分かりませんでした。
コンパに行っても何もしゃべらないまま終わります。
もちろんダサダサの格好をした僕には誰も見向きもしません。
ルックスに関するコンプレックスは多大にあり、それは中学校くらいからありました。
なんて言うか、「女性と楽しくしゃべりたいのに女性と軽々しくしゃべるのは軟派なやつだ」というような訳の分からない価値観にがんじがらめにされていました。
もちろん、中学高校時代は東京に行くと決めてい勉強ばかりしていたので恋愛なんてしてる時間はないと思い込ませていた節もあります。
その内、会社の先輩からヘルスやら、ソープを教えられてどっぷりはまってしまいました。

建設業というか、その会社の先輩とも合わないと感じ始め、
2年ほどすると、会社に行くことが苦痛で苦痛で仕方ない日々が続くようになり、会社を辞めようと思いました。
一度は先輩に理由を話すと留められ諦めかけましたが、やはりもう無理だと感じるようになりました。
すると、バブル崩壊のあおりを受けてか、会社が事業縮小すると言い、給料の15%カットか辞職かをせまられました。
退職希望者は解雇扱いにするから失業保険は翌月から出るようにすると言われ、
その前から退職を考えいた僕は翌日、退職する旨を伝えました。

それ以前に会社を辞めるに際して、次はどんな仕事に就こうか考えていたとき、
漫画のロゴマークを考えたりするのが好きで、
そういうのはPOPと言うことを知り(実は違ったのですが、そう思い込んでいました)、
この歳だからちゃんとした会社は無理だろうが小さな会社で薄給でもPOPを作りながら楽しく過ごせたらなあと考えていて、専門学校に行こうと考えていました。
そういうことを退職することを社長に告げに行くと、事務員さんから職業訓練学校に行ったら、
失業保険をもらいながら学校に行ける事を聞き、
ハローワークのパンフレットに「商業デザイン科」としてそういう学科があることを知りました。
簡単なペーパーテストを受けた後合格し、一年間学校に通うことが出来るようになりました。
ちょうど30歳の時です。

学校に行き始めると、ポスターやらDMなどデザインに関する授業を受けることになりました。
そこにはまさに自分がやりたいと思うことがたくさんあって、楽しくもあり充実した毎日でした。
コンセプトから自分で考え、それをいかに分かりやすく伝わりやすく見やすくするかを学びました。
デザインというものです。
自分中にあった言葉にならない思いをカタチにしたものがそこにありました。
「あぁ~、僕はずっとデザインがしたかったのだなあ」と気付きました。

当時の学校は20人の生徒がいて僕より年上は一人で、中には高校を卒業したばかりの子達もいて
楽しい日々でした。
みんなで遊びに行くことも何度かあり、好きな人も出来ました。
しかしながら、恋愛をしたことのない僕はこのままの関係を保っているままでいいと思い告白できずにいました。
そんな日々を過ごしている内に、月日は流れ11月頃になるとデザインすることが苦しくなってきました。
いいアイデアが浮かばない。
何を創ればいいのか分からない。
そんな日々が続くようになり、学校に行くのが苦痛になりました。
ちょうど、会社を辞めたいと思い始めた頃と同じ状況になったのです。
今で言う、鬱状態になったのです。
今でこそ鬱だったと分かりますが、当時は怠け病というか
あんだけみんなが頑張ってつくっているのに、自分だけなぜこんな状況に陥っているのか理解できませんでした。
ただただ嫌で嫌で仕方ない自分が嫌いでした。
それでも何とか卒業し、就活に入りました。
年齢が若いこともあって、次々と就職を決める中、ようやく僕も就職できました。
しかし、そこは今で言うブラック企業で、
毎日終電まではたらき、裁量労働制を取っていることで残業代も出ず、
社内では怒号が飛んだりして労働環境としては最悪でした。
それでも、僕は才能もない年寄りだからこういう会社でしか働けないんだと思い、
周りが思うほど苦痛には感じず働いていました。
体重も10kgほど落ちて、周りはかなり心配してくれましたが、
そんな会社でも、僕を頼りにしてくれていたのは事実だし(単純に辞められると一人あたりの仕事量が増えるのが嫌だったというのもあるでしょうが)、やりがいも感じていました。
しかし、ちょっとしたことで、その信頼しているチーフからいわれのない嫌疑をかけられ、
今まで意識化の中で押さえつけていたものが爆発し、糸が切れデザインが全く出来なくなりました。
パソコン画面を見ても何も出来ず、
ただただ何をしても怒られるんじゃないか、なぜこうしたのか理由を求められ責められるのではないかと
恐怖心に似た思いに襲われ何も出来なくなりました。
周りの人達もそんな僕に気付いたのか
「大丈夫?」と声をかけてくれたり、鬱の特集をしている雑誌を差し出して「これになってるんと違う?」と手を差し伸べてくれました。
仕事もかなり減らしてもらいましたが、苦痛は変わらず。
辞めようと思いました。
それでも、「簡単に仕事を辞めるなんて」と親に叱責されるのではないかという恐れもありました。
心の奥でどこか、親に特に父親に支配されているというか、
父親が怒るようなことをしてはいけないという思いもあり板挟みでしたが、
とにかくこの会社には入れないと思い辞めることを決めました。
その会社は1年契約でそのたびに継続して働くかとか給料の昇降の決定が3月に行われるのですが、
3月のその時期に当たり退社する意思を告げました。
こうかくと良い会社に思われるが、有能な人材が辞めようとすると会社全体でそれを阻止する風潮があり、
僕の直属の先輩も辞めようとして、次の就職先を決めていたのに圧力がかかり辞退せざるを得なくなりました。
そんなこともあり、退職できるか不安でしたが、問題なく退職できました。

その後、就職活動をするのですが、
また同じような境遇になるのは嫌で楽な会社を選ぶようになりました。
印刷会社の制作なら楽だろうと何件か応募して、京都の小さな印刷会社に就職が決まりました。
もちろんその間デザイン会社も応募しましたし、
就職が決まったこともありましたが、
やはり、初日から徹夜など普通だったりして一週間で辞めたりしました。
思った通り仕事自体は楽で、定時に帰るのが当たり前でした。
もっとも試用期間の時給は600円で薄給でしたが、
そういう会社の方が辞めやすく、10月頃になれば求人も増えるからもっと良い会社に移るつもりでいました。
ただ、体調は万全ではないのも事実で、
やっている仕事も病院で使うカルテを原本通り寸分違わず創るとか、
そういうレベルのものしかなくクリエイティブ性は皆無でそれはそれで悩みの種でした。
どうも体調が優れず、薬でも飲めば楽になるかと近くの病院に行きましたが、
そこには僕が思う科はなく、少し離れた小さな心療内科を進められました。
そこで、医者から「典型的な鬱ですね」と言われなぜかほっとした気分になったのを覚えています。
こんな怠け病のような僕の症状に病名が付くんだと不思議に思った気がします。


※結構長くなったので続きは後ほど書きます。
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