もぐぞうのあなぐら

周りの人達と上手く渡り歩けないもぐぞうが日々感じたことや考えを思うままに書き連ねます。

2015年05月

最後の最後で…

友人が29日に亡くなったことは前回の日記で書いた。

本来の予定ではGWは例年通り、梅ノ木キャンプ場に行くつもりだったが、24日に友人の命がそう長くはないことを知り、キャンプに行くかどうかは思案していた。
そして28日に危篤状態に陥り、一時はキャンプをやめることにした。
こんな状態ではキャンプに行ったところで、気になって楽しめないし、万が一があった時にすぐ病院に駆けつけなくてはならないことを考えると京都を離れることは考えられなかった。
それが29日の朝方に亡くなってしまいキャンプを中止する理由もなくなってしまった。

ただ、友人が29日になくなったことで、当初29日に食料の買い出しと、荷物を車に積むことは出来なくなり、
キャンプの日程を一日減らすことにした。
当初1日の晩に出て、初日は車中泊で、6日に帰る予定だったが、2日に買い出しと荷物を積んで、準備が出来次第キャンプ場に行くことにした。
2日朝から買い出しに出て、荷物を積み13時頃出発できた。
ただ、あまり早く行っても管理棟が開いていつので、料金を取られてしまうので、17時以降着くように昼はびっくりドンキーで時間を潰した。
15時半頃出てゆっくりと梅ノ木キャンプ場に向かったが、その時間だと道も空いていて16時半に着いてしまった。
キャンプ場から少し離れたところにあるトイレに車を停めて徒歩でキャンプ場に行き、
テントとタープを張る場所を探した。
幸いいつも僕たちが陣取るところが開いていたので、管理人が帰るのを見計らってそこに車を停め、設営した。

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天気も良かったこともあり、日帰りの客も何組かいたがそれでも混雑はしていなかった。
今回は二人だけで、明日焼き肉を食べに長女が来る予定があるくらいなので、
荷物もそれほど多くはもってこなかったので、設営もすぐ終わった。
テントとタープを張るだけなら1時間ほどで終わり、後はコンロやテープルなど並べるのに小一時間かかった程度だった。
日が落ちる前に設営でき、後は酒を飲むだけが仕事になった。
昼を遅めにとったので、お腹もそれほど空くこともなく、
彼女は連日の病院通いのせいか疲れて20時過ぎに寝た。
僕も23時にはシュラフの中に入った。

次の日、仕事のリズムを身体が覚えてるせいか早くに目が覚めてしまった。
曇り空だったがさすがに川縁はすがすがしい空気が流れていた。

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今まで3匹いた鯉のぼりも離婚したのか母親1匹になっていた。

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時間を追う毎に人が増えてきた。天気予報では3日の夕方から雨の予報で、
4日は一日雨らしい。

テントの設営と撤収だけ降らなければそれ以外はどんな天気でもあまり気にはならない。
3日は彼女の長女がやってきて肉を満足するだけ食べて夕方には帰って行きました。

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4日はあまりいい天気はないという予報で客もまばらでした。
時折きつい雨に降られましたが、それもまたキャンプの良いところでもあります。
雨も夜には止み、4組ほどいるだけで、ほとんど貸し切り状態でした。
この日はクリームシチューでした。(画像は忘れました)。
これくらいの季節には丁度良かったです。
酒のつまみにもなるし、ちょっと小腹が空いた時にも温めて食べられるし便利な料理です。

5日は晴れ、客もぞろぞろとやってきました。

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天気のいい陽はこうやって色んな者を干します。
初日にその辺に落ちている木々を広い焚き火をしたのをえらく彼女が気に入り、
時間を見ては木の枝を拾い集めていました。

この日は3日の残った肉を少しと厚揚げやらチー鱈を焼いて食べました。
食事も一通り終え、炭が残っている内にと燃えるゴミを彼女が燃やし始めました。
しばらく火を眺めながらボーッとしていると日差しがきつくなり、
僕は日陰のタープの中に入りました。
すると突然乾いたパーンという音が鳴りビックリしました。
突然の大きな音が嫌いな彼女の方を見ると顔を押さえて
「目が痛い、目が痛い」と言っていました。
僕は何が起こったのかよく分からず、彼女が目を洗いたいと言ったので、水のタンクを持ってきて彼女の手に注ぎました。
何度も何度も目を洗ったのですが、痛みがまったく治まらずおろおろとしていると、
隣でタープを張っていたお父さんが「これ使ってください」とアイスノンを貸してくれました。
それがかなり効いたようで痛みは治まったと言っていましたが、目がまったく開けられない状態でした。
救急車を呼ぼうかとも考えましたが、キャンプ場が大事になるのと、
変に救急車で近くの病院に運ばれてそこに眼科医の先生がいないと困るし、
またその後の通院がやっかいになるのが嫌だなあと考えていました。
ただ、時間が経っても状況が好転しないので、彼女の妹さんが滋賀県に住んでいるので電話して良い病院がないか聞いて教えてもらったところに電話してみるが
大型連休中ということもあり、眼科医がいなくて、彼女が言う京都市内の病院に電話しました。
それで、状況を説明して薦められる病院に向かいました。
時刻は17時頃で丁度道が混む時間帯で、
普段なら1時間もあれば着く距離を3時間も費やして到着しました。
こんなことなら救急車を呼べばよかったと後悔しましたが、もう車で出ている以上どうしようもありませんでした。
20時過ぎに救急病院に着くとそこは患者さんでごった返していました。
ただ、眼科だったので比較的早く診察してもらえました。
治療中、映し出されるモニターを見ると両目の中に灰がたくさん入っていて、やけどした後が数カ所ありました。
生理食塩水で目を洗ってもらいましたが、お医者さん曰く救急で手に負えるレベルではないといわれ、
応急処置だけしてもらい大学病院に行くよう薦められました。
急いで大学病院に向かい治療してもらいましたが、やはり休日ということもあり、
眼科の先生はおられたのですが、角膜外来の先生はおられず、
もう一度生理食塩水で目を洗ってもらい、目薬を差し、特にひどい左目に軟膏を塗って治療は終わりました。

さすがに彼女も救急病院で応急処置で目を洗ってもらった後少しは目が開くようになり、痛みもあまりなくなったと言っていたし、大学病院でもう一度目を洗ってもらい、軟膏を塗ることで、右目は開けられるようになりました。
ただ、診察中モニターに映る彼女の目の状態はかなりひどく、特に左目の涙腺の辺りは焼けて腫れて白く膨らんでいました。
彼女は明日、もう一度病院に行って経過を見るということで、とりあえずその日は出来ることはそれ以上なく薬をもらって彼女を自宅に送りました。
僕は一人でキャンプ場に戻り明日の撤収に備えました。
キャンプ場に着くと夜中の1時を回っていました。
僕も疲れてあっという間に寝てしまいました。
次の日7時過ぎに起きて撤収をしていると、彼女の娘と親戚のお父さんが撤収の手伝いに来てくれ1時間ほどで撤収は完了しました。
帰りに彼女から電話があり、病院から帰る途中で合流して家まで一緒に帰りました。
痛みはもうなく、ただ視力がかなり落ちているのと左目に眼帯をしているので歩きづらいと行っていました。
とにかく両目とも視力が落ちているとはいえ見えているので、ホッとしました。

その後8日の金曜日にも角膜外来の専門の先生に見てもらったところ順調に回復しているということで一安心です。
9日土曜日には眼帯もはずれ、顔は火の粉というか灰のやけどの痕が残ってはいますが、目もちゃんと開けられています。
とまあ、事の流れは以上なのですが、僕の気持ちの動きはというとまたそれは別の話になります。

まず、大きな乾いた音がなったときはそれほどの事故とは思いませんでした。
何かが破裂しただけでまさか目の中に灰が多量に入りやけどしているとは思いませんでした。
陽も暮れ始めようやく酒を飲もうかと準備をしだしていたので、出鼻をくじかれた感がありました。
「目が開けられへん」とは言うものの痛みでのたうち回るという感じではなく、
僕が差し出した水で必死に目を洗っていたので、そのうち目は開くだろうと思っていました。
隣の客からもらったアイスノンで冷やしてるとかなり楽になっているようだったので、
時間の問題ではないかとさえ思っていました。
何より、焚き火も落ち着いて来ていたのになぜあのタイミングで火の側に近づいたのかが理解できませんでした。
結果的に爆発したけれど、いったい何が原因なのかが未だにさっぱり分かりません。
一応燃やす時は一つずつゴミ箱から出していましたし、その内面倒くさくなってコンビニの袋ごと燃やしたりもしましたが、小さい袋で燃えるものばかり入れたものでした。
彼女はライターが入ってたんじゃないかと言いましたが、ZIPPOを使ってる僕は、今回のキャンプで100円ライターは使っていませんでした。
またいつまで経っても目が開けられず、目を冷やしている彼女は自分の現状をまったく言わず、僕としてはどうしていいのかはっきり言って分かりませんでした。
「救急車呼ぼうか?」と言いましたが、「眼科のない病院に連れて行かれたらかなんしやめて」と言われ、
一応滋賀県の主立った病院に電話して眼科を紹介してもらいましたが、そこは休みで、ようやく京都の病院を見つけ車を走らせましたが、渋滞に巻き込まれなかなかたどり着けずイライラが募るばかりでした。
正直、「明日で帰るというのになんで事故すんねん!」という気持ちでいっぱいでした。
そもそも僕はゴミを燃やす気なんてさらさらなく、彼女が突然ゴミを持ってきて燃やしだしたのです。
長い車の中では、「失明するわ…」などと言い出し、僕は失明した彼女の面倒をこれから一生見ていかなくてはならないのかと思うと憂鬱でしかありませんでした。
今晩焚き火しながらゆっくり酒を飲もうと楽しみにしていたのに、それが断念せざるを得なくなったどころか、失明の危機にまで陥っているなんて考えられません。
このまま入院となったら明日の撤収をどうしたらいいものかとも考えていました。

病院に着き治療する彼女の側にいて映し出されるモニターを見ると、
これで本当に痛くなかったんか?というぐらい多量の灰が目に入っていてところどころやけどの痕が斑点のようにまだらにありました。
救急病院の先生には今後の経過次第では失明も有り得るといわれたが、大学病院では頼りなさ気な先生が目薬と軟膏で治るような感じで軽く言われるし、まったく状況が飲み込めませんでした。
次の日、病院の帰りに合流した時も何か彼女が質問いた時に「かなり重傷ですよ」と釘をさされてるし、
帰ってから酒を飲むしと彼女の言動がまったく理解できませんでした。
幸い順調に回復しているので一安心ですが、これから先もこんな女性と一緒に過ごしていくのかと考えると不安意外なにもありません。

もちろん、当事者の彼女が怪我しただけで事が済んで良かったのですが、これが他人の子供なんかにこんな怪我を負わせていたらと考えるとゾッとしますが、よりによってなんであの瞬間にあそこにいたのかが不思議でたまりません。
ちょっと前まで一緒にタープの中にいたのにです。
とにかく事故が起こってしまったから仕方のないことですが、あと一日ゆっくりキャンプを堪能する予定がこんな結果になってしまい残念で残念で仕方がありません。



初めての朽木キャンプ場(桑野橋河川公園)、そして…

先日のGWにはいつものように梅ノ木キャンプ場に行ってきました。
ちょっとその前に書かなければならないことがあります。

4月の29日に友人が亡くなりました。
二年ほど前に乳がんになりその後闘病生活を続け、去年の11月頃は体内に癌細胞が見つからず完治したと聞いていたのですが、
今年に入って再検査をしたところ全身に転移が認められ、もう処置のしようがない状態になっていました。

4月25日、今シーズンのキャンプに備えて防水スプレーをふりに朽木のキャンプ場に初めて行きました。
正式には桑野橋河川公園というらしいです。近くにある朽木オートキャンプ場と区別するためでしょうか。
なぜ梅ノ木キャンプ場ではなく、朽木のキャンプ場にしたのかというと料金が安いからです。
梅ノ木が車一台500円、テント一張り500円という価格なので、いつも1500円ほどかかっているのですが、
朽木は一人300円なので彼女と二人で一日600円という破格の値段なのです。
では逆になぜいつもそこに行かないのかというと、まず人が多くて騒がしいのです。
この低価格なので多くの方が利用されて、早く行かないと場所が取れません。
また本当に河川敷にあるので、夏の集中豪雨の恐れがある時は怖くていけないのです。
梅ノ木の方が料金は高いですが、2~3メートルほど小高いところにあるし、
お客さんも日帰りが多いので、夜は静かです。

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GW前とあってお客もまばらです。
今回は広い場所でテントやタープに防水スプレーをふるだけの予定でしたので、
大した材料も持ってこず車中泊で済ますつもりでした。
24日、仕事が終わると荷物をまとめて彼女を迎えに行き、夜中に車を走らせました。
1時間半ほどで着くと周りの方はまだ起きておられて焚き火などをしてるところもちらほら。
この日は車中泊でした。

次の日、軽く朝食を済ませて落ち着いた後、早速防水スプレーをタープやテントにふりかけていきました。

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こんな感じです。

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結構体力がいる作業で、時間もそこそこかかります。ビール片手にのんびりと作業をしていました。
去年は10本買って行ったのですが、足らず後から買い足しスプレーをふり直したりしたので、
今回は20本購入しました。結局6本ほど余ったので、来年は15本ほどでいいかと思います。
写真のように天井は広げて塗るのですが、サイドは一度立ててから塗ります。

で、僕の中ではそのまま片付けるつもりだったのですが、彼女が「せっかく立てたのだからテントで寝よう」というので、
作業終了後もそのままにすることにしました。
これは朽木だから出来ることで、梅ノ木だとこれをするとテントとタープの追加料金1,000円を取られることになります。
一応目的の作業は済んだので後は明日の日曜日の帰る時間までのんびりすることになりました。

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朽木はこんな感じで広々としたところです。
雨の心配さえなければとても良いところです。
もちろん皆さん万一に備えて少し高いところにテントを張っておられます。

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テントを建てる向きを間違えて日差しがきつくあたってます。

夜になっても思ったほど寒くもなく過ごしやすかったです。
次の日も快晴でした。
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さすがに日曜日ともなるとお客さんも大勢来られています。
ここの良いところはゴミ置き場があることです。
ある程度の分別は必要ですが、ゴミを持ち帰らずに済むのは本当に助かります。
ダメなところは炊事場が小さいところです。
広い割に1箇所しかなく、側溝のようなコンクリートを箱が四つ地面に置いてあるだけなので、
洗うのは面倒だし、やりにくいです。

25日の夕方に彼女の親友であり、僕の友人でもある女性から彼女に電話がありました。
その友人は癌で闘病中なのですが、彼女曰く「もう処置のしようがない」と医者に言われ個室に移されたと言ってたらしいです。
電話を切った後、彼女はわんわん泣いていました。
親友の死が間近に迫っていることを思い知らされどうしていいのか分からなくなり、ただ悲しみだけがそこにあるような感じでした。
その事が引っ掛かっていたので、日曜日は友人の病院に寄ってから帰ることにし、少し早めに撤収を始めました。

病院に着くと友人とその娘がいて、娘は泣いているようでした。
その友人とは僕自身いろいろとあり、彼女から友人に会わないように言われていたので、
お見舞いも彼女同伴でないといっていなかったし、
これまでの経緯は彼女から聞いていたので何ヶ月ぶりかであう感じでしたが、
言葉は悪いのですが、痴呆症の老人のようなたたずまいでした。

癌が全身に転移し、頸椎まで達していて投薬のせいか記憶や言語障害も多少なりとも出ているようで、
長年遊んだ中の彼女は認識できていましたが、僕を知人として認識できず、幽霊を見るような目でまじまじと僕の方を見ていました。
以前会った時は「よう!もぐじい!元気でやってるか?」と声もかけてくれましたが、今回は僕が誰かも分からないようでした。
僕は会話をすることもなくそこにあった椅子に座って彼女と友人の会話を聞いていました。
僕らが来てまもなく、友人の娘がトイレに入り、出てこなくなったので、頃合いを見計らって僕は病室を出ました。
しばらくして、彼女と友人の娘が出てきて、その娘を送り届けることになりました。
変わり果ててしまった友人の姿を見て、その娘にかけてあげる言葉もなく僕はただ車を運転してるだけでした。

娘を送り届けると、お互い友人の命が長くないことを知り、残りの人生で何をしてあげられるかを話したりしましたが、結局他人の僕らは見守るしかないと思いました。

27日も彼女は仕事帰りにお見舞いに行き僕に状況を説明してくれました。
28日、仕事が終わりケータイを確認すると、彼女からLineでその友人が危篤だと知らされました。
どうしようか考えたのですが、最悪の場合深夜に帰らなくてはならない可能性も考え、
僕は一度家に帰り、車で病院まで行くことにしました。
21時半頃病室に着くと、友人と彼女の共通の友達が二人来ていました。
彼女の娘もいて泣いていました。
友人の息は荒く、呼びかける声に反応するのが精一杯で、それも意識してか無意識なのか判断できない状態でした。
医者から「今日は大丈夫だと思います」と言われたようで、友人の両親は帰った後でした。
しかし、僕が見るに今日がヤマだと思い、彼女も同じように感じていたらしく、病院に泊まることにしました。
二人の友人は家庭もあるので22時過ぎには帰られ、彼女の息子や娘も途中までいましたが、仕事もあるので帰らせました。
結局友人の長女と彼女と僕の三人で泊まることにしました。
僕は時折睡魔に襲われ、何度か寝てしまいましたが、長女も彼女もほとんど寝ず、時折友人に声をかけたりしていました。
明け方の3時頃になると荒かった息も弱々しくなり、どうなるか不安だけが募って来て、何度か看護師さんを呼んだりしていました。
4時頃になるといよいよ危ないと感じ、長女を通じて家に電話してもらいました。
その友人には二人の娘がいるのですが、長女は高校三年生で、次女は高校一年生です。
次女の方は母親の死が受け入れられないのか、電話と受けた友人の父親に何度起こされても起きようとせず、
その父親だけ1時間以上後で病院に来ました。
その病院に別の癌で闘病中の母親も車いすで看護師に連れられてやってきました。
結局、6時前、5時50分頃誰が見てもわかるように彼女はなくなりました。
しかし、病院の医師は家族が全員揃うまで死の確認はせず、家族の到着を待ちました。
6時過ぎに次女と友人の兄が到着し、全員揃ったことを確認して医師は死を確認し口頭で「6時17分、ご臨終です」とだけ言って出ていきました。
泣き崩れる長女と、はかなさややるせない気持ちでいっぱいの僕らをよそ目に陽はどんどん昇っていきました。

友人の備品を整理して数時間後僕らは病院を後にしました。
もう10時を過ぎていたので、軽くファミレスで朝食をとって別れて僕は家に帰りました。


友人は僕と同い年で44歳。
あまりにも早く逝ってしまいました。
せめてもの救いは長く苦しまなかったことです。
もちろん2年以上の闘病生活だったので、苦しい日々が続いたことは確かで、その間絶望に打つひしがれた日々だったと思うのですが、それが終わったことは良かったのかなあと感じます。
トリプルネガティブという不治の病に冒され、未来の見えない毎日に苦しんでいたと思うし、
出来ることなら完治してまた元気にキャンプに行ったり、酒を飲んだりしたかったのだが、
それも叶うことなく旅立ってしまったのは悲しく、悔しいことに違いはないが、それが終わったことは一つの区切りではあると思う。
残された子供達の行く末が心配ではあるが、他人の僕が出来ることは限られているし、後は自分で考え行動するだけだと思う。
なかなか逝ってしまった者と遺された者の思いというのは合致せず、
ご都合主義の解釈でやり過ごしてしまうことになるが、それでも僕たちは生きていかなくてはならず、
どこかで折り合いを着けなくては前に進めないのだから、どんな解釈であろうと、一人の死を受け入れて心の片隅に追いやらなくてはならないと思う。
言葉にするとこの程度の文章でしか書けないが、もともと今の彼女と出会うきっかけとなったのは亡くなった友人からだし、彼女と過ごした日々と同じ時間だけその友人と繋がっていたことになる。
だから簡単には語ることが出来ない想い出がたくさんあるが、それを時には思い出しつつ、いつまでも友人のことを忘れずにいようと思う。







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