もぐぞうのあなぐら

周りの人達と上手く渡り歩けないもぐぞうが日々感じたことや考えを思うままに書き連ねます。

テレビの穴

どうもスッキリしないドラマだった。

「MOZU」をseason1、season2両方を一気に見た。
途中で止められないくらいストーリー自体は面白かったんだけど、1、2ともFinalEpisodeがどうもイマイチだった。
西島秀俊の演技も何だかなあって感じだし…。
ストロベリーナイトの時もイマイチだったし、なんというかそのドラマの中での役を演じるというよりも、
単なるそんな風を演じている人にしか見えないんだよね。
ただ「流星ワゴン」は良い感じだったので、もうちょっと様子見って感じの役者かな。
それに比べると香川照之は凄いと思う。
しょっちゅう色んなドラマに出ててその度に色んな役回りをしていて、まあ似たような役も多くて演技も似た感じの時があるんだけど、上手いなあって思う。
ちょっとおとぼけた感じとかをいい間合いで出してる感じがする。
真木よう子もこれまたどのドラマ見ても同じような演技ばっかで逆にビックリする。
まあ、その見た目からクールな役どころが多いから仕方がないのかも知れないが、
それでももう少し、メリハリというか違いを出してくれても良いような気がする。
役者以上に気になったのが怪我の治りの早さ。
崖から落ちて記憶を失った新谷(池松壮亮)は包帯でぐるぐる巻きだったのにあっという間に走ったりしてる。
season1の最終回では心臓をとがったオブジェで貫かれてるのにそっから室井(生瀬勝久、昔槍魔栗 三助)を殺しに行くなんて信じられない。
明星(真木よう子)も腹部から多量に出血しているのに生きてるし、そうかと思ったら、次の日には走り回ってる始末。
どうなってんだか。
どうも小説の方は新谷が主人公らしいのだが、それだとものすごく面白い話になってるような気がする。
若干24-TWENTYFOURを意識したような二転三転するドラマで、結局ラスボスにたどり着けたのかどうかあいまいだし、なにより、そもそもそんな大きな組織の人間がドラマの発端となった事件を起こすか?っていう無理くりな設定というかストーリーはまさに24-TWENTYFOURそのものな感じがする。
なんていうか高いレベルで作られているんだけど、ところどころに突っ込みどころが多すぎて集中できないというかもったいないドラマである。
小説がそうなのか、ドラマ用にそういう設定、ストーリーになったのかは分からないがとにかくもったいない作品である。
池松壮亮の演技は素晴らしかったが、新谷宏美の歩き方がどう見ても男の歩き方で、
演技の上手い池松君らしからぬミスだと思う。
また、長谷川博己の狂気さは渡部篤郎のそれには到底適わない。
充分異常さは伝わってくるし、「デート~恋とはどんなものかしら」「家政婦のミタ」のような頼りない大人の演技とは180度違う演技力で凄いとは思うのだが、怖さがないんだよなあ。
なにを考えてるのか分からない恐怖ってのが伝わってこない。
もちろんその辺は監督の狙いとかもあるから長谷川さん一人の問題じゃないんだろうけど、どうも引っ掛かって見てしまう。
とにかくこの「MOZU」は連ドラとして見ると次が気になり、楽しみなドラマだが、全体通してみるとイマイチというか
合格点ギリギリって感じのドラマだった。
まあ、この手のジャンルはやり尽くしてる感があるし、そこにオリジナリティを付加しようとするとこうなっちゃうのかも知れないけどね。
でもまあ、15話ほど楽しんで見れたのでこれはこれでいいのかな。って感じです。

毎日イライラする。

仕事が決まらず焦る毎日でイライラが募る。
爆発しそうなくらい心がわさわさしている。
何もやる気が起きない。
昨日、派遣会社からの紹介があったデザイナーのお仕事が消えた。
別の仕事で応募したけど社内選考でその仕事はダメになり、代わりに紹介された仕事が先方の条件と合わずに見送られた。
自分にそれだけのスキルがないのだから、それは仕方がない。
未だに仕事が決まらないのはそれだけ僕に価値がないからだと思う。
今まで、嫌なことを遠ざけてきたからかも知れない。
とにかく何もやる気が起こらないので録り溜めた映画やドラマを観ていた。
スカッとしたいと思いアクションものを見た。
「エクスペンダブルズ」「エクスペンダブルズ2」だ。
とにかくただただドンパチを繰り返すだけの映画。
その為だけにストーリーがあるからむちゃくちゃな映画です。
出演者がその手の映画に出てる人たちばかりなので、もう、それだけを楽しむだけに作られていて、
そういう意味では良い映画です。
理屈も整合性も道徳も倫理も何もあったもんじゃない。
ただただ自分がやりたいことを何も気にせずやるだけの頭の悪い筋肉バカの集まりです。
でも、スカッとなんてしなかった。
「おい、おい」と突っ込んでばっかで楽しめなかった。
もしかしたら僕は考えてみる映画の方がスカッとするのかも知れない。

ちょっと前に「アメリカンハッスル」を見たが、こっちの方がよっぽどスカッとした。
エイミー・アダムスジェニファー・ローレンスという美女を見ているだけで心が癒やされる。
むさ苦しいおっさんの筋肉を見るよりよっぽどいい。
もっともストーリーは世間の評価ほどではなかった。
「ユージュアル・サスペクツ」「ショーシャンクの空に」、古くは「スティング」のような見事なオチではない。
厳密に言うと出演者の巧さによって映画自体が何割か増しで良く見えた感じだ。

その後、評判がよかったドラマ「デート~恋とはどんなものかしら~」を見た。
いや~面白かった。
古沢良太の脚本は面白いし、演出も脚本のテンポやリズムを活かしていて良かった。
また長谷川博己もやっぱり上手いと思う。
ときおりあざとい演技というか、冷めるようなシーンもあるが、それはそれで演出にも見えるし、間延びせずダレない。
楽しみなドラマが始まった。
次に「流星ワゴン」を見た。ちょっとSFファンタジーっぽい作りなんだけど、そこはさすが重松清、不器用な父と息子の関係を書かせたらぴかいちだ。
「とんび」では毎回泣かされていた。
今回の「流星ワゴン」は泣くようなシーンはなかったが、それでも父永田忠雄に反発して東京に飛び出した息子一雄を中心に親子の関係についてうまく描かれていると思う。

とまあ、こうしてブログを書きながらも心はどこか浮ついている。落ち着かない。
とにかく働くしかこの状況を打破する手立てはないのだが、仕事が決まらない。
別の仕事、別の職種…どうやって探せば良いのだろう。
ハローワークでそれを告げても、けんもほろろに「今までの経験を活かされた方が就職しやすいと思いますよ」としか言われないし、派遣会社からは何の連絡も来ない。
自分からエントリーしてもお祈りされるだけ。
あー!ほんとにどうしものかっ!!

それぞれの1月17日。

1月17日。この日のことはやはり避けては通れないようで少し書きます。
詳しくは
http://mogu.blog.jp/archives/13120886.htmlに書いてありますが、今の僕が感じた1月17日、というか阪神淡路大震災についてのことを書きます。

この日になるとなんとも言えない気持ちになる。
僕は別に被災者でもなければ、身内をなくした訳でもない。かといってボランティアで震災復興に関わった訳でもない。
結局テレビから流れる映像を見ていただけのただの関西人です。
当時フリーターをしていたから、動こうと思えば誰よりも簡単に動けたのに動けませんでした。
2011年3月11日の東日本大震災の時もそうでした。
助けに行こうなんて気持ちも起こらず、ただただ呆然とTVを見ることしか出来ませんでした。

昨日NHKで「満月の夕~震災で紡がれた歌の20年」という番組をやっていた。
ソウル・フラワー・ユニオンのファンであり、HEATWAVEのファンであり、ガガガSPのファンである僕は録画をしていたのだが、15分遅れで放送を見た。
そこにはそれぞれの「満月の夕」という曲への思いが語られ、震災当時の状況も語られていた。
そして、ふと自分にも当時の想い出が蘇り、結局何もできなかったなあという思いしか起こらなかった。
そうして考えてみると僕は咄嗟の時に固まってしまうなあ、動けないなあと思った。
それは神戸や福島という離れた場所に対してだけでなく、
自分の身近に起こったことでさえ固まって動けなくなるということである。
単純な話だと、突然上司に怒られたり、彼女に怒られた時に何も言葉を返せなくただただ思考が停止し、固まってしまうのである。
身構えてしまうというか、よりじっとしておこうという風な心理が働く。
なんでもいいから動かなきゃといつも思うのだが、身体が動かない。
考えれば考えるほど動かない。
それはまるで今動けないのはその事に由来するのかと思わせるくらい動けない。
というのも、就活はしているがそのほとんどを家の中で過ごしている。
会社を辞めた当初は貯金もそこそこあったし、訓練校にも行っていたが、その学校を卒業してからは動きがぱたっと止んだ。
本来なら、それこそ何でもいいから動けば良かったかも知れないのに、
今と比べても金銭的に余裕もあったのだから人と会うなり、したいことをすればいいのになにもしなかった、できなかった。
それはもしかしたら、何かしら自分自身が危険を感じ、硬直してしまったかのように動けなかった。
今でもそれは続いていて動けてはいないのだが、それはその急に何か異変が起こると身体が固まってしまう習性の延長上にいるかのようだ。

本来なら、フリーランスでやるにしろ、会社勤めをするにせよ、色んな所を回って会話をしていけば何かしら進展がある可能性があるにも関わらず、なんだかんだ理由をつけては家に籠もっていた。
もちろん、彼女に頼まれて病院に連れて行ったり、呑みに行ったり、キャンプにも行ったが、
そういうのではなく、自分の行動や交友の範囲を広げるための行動をしてこなかった。
どちらかというとずっと家にいたかったし、外には出たくなかった。

前の会社で働いてた時、よく撮影してくれていたカメラマンは次の日に福島へ来るまでボランティアに行っていたし、阪神・淡路大震災の時も急いで駆けつけた人がいたこともよく聞く。
咄嗟に動ける人たちなのだろう。
そういう人たちは災害とかそういう困窮の状況だから動いたのではなく、生来の性格として動けるのだと思う。
例えば通勤電車の中で誰かが倒れたり、何かしらのトラブルが目の前で起こった時に動ける人たちだと思う。
それを僕に置き換えれば、たぶん知らんぷりをして通り過ぎると思う。
野次馬にもならずに自分の予定を粛々とこなすと思う。
結局そういう人間なんだなと僕は思う。
無関心とか冷めているとかそういう面もあるだろうが、そうではなくただただそういう突然のトラブルに対し、
思考が停止し、何も動けなくなり、いつもと同じ行動を取ろうとする心理が働くのだと思う。
つまりは予定通りに事が進まないと気に入らないのだ。
イレギュラーな状況に対して対応できない正確なのだと思う。
根本的にそういう思考形態は改めた方が良いと思う。
明日何が起こるか分かりはしないのだから、フットワーク軽く動ける心持ちでなければいけないと思う。
全てを予定通りに進めようと、計画を練り、準備をすることなんて出来ないのだから、それにこだわっていても仕方がないと思う。
心のどこかに予定通りにシミュレーション通りに動くことが正しいと信じている節がある。
そうであるべきだという強い信念にも似た気持ちを持っていると思う。
だから感じるより先に考えようとしてしまうのだと思う。
考えることが、より深く洞察することが正しいと、間違いはないと信じ切っているのだと思う。
もっともっとその時々の感性を信じ、またその感性を磨くような行動をした方が良いと思う。

就活にしてもそうで、もちろん良い会社に勤めるようにすることは大切だが、
かたくなに条件を決め、その条件に合わないものを排除していくのではなく、
もっと柔軟に、「おもしろそう」と思える方向に行動していった方が良いと思う。
そうしようと考えてしまう思考自体を改めて、流れに任せるくらいの心の余裕を持ちたいものだ。

TVのお笑い芸人について

今年の流行語大賞に日本エレキテル連合が選ばれた。
その数ヶ月前から一発屋の照合が与えられている。
ある芸人は行っていた。
「流行語大賞なんか迷惑な話」だと。
「流行語大賞ってのはその年一番流行した言葉ってことになるから、流行語大賞を取ってしまうと、次の年に同じ事を言ったら、『今年の』って付いてしまうから区切りができて、『古い』って思われてしまう。」と言っていた。
流行語大賞に選ばれると消えてしまうと言われるゆえんだと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=mYXGIwxgOec
↑でも言っているがお笑いというのはただ面白いだけではいけない。
面白さと時代の流れが必要だと島田紳助さんは言っている。

一発屋以前にお笑い芸人として通用するかどうかについて僕が思うところを書いてみる。
もちろん基本として「お笑いが好き」ってのはあるだろうが、それは縦軸のようなもので、
横軸で「喋ることが好き」っていうのがしっかりないと芸人としては残っていけないと思う。
先日もブログで書いたがパペポTVなんか最たるもので、
笑福亭鶴瓶上岡龍太郎のフリートークがとてもおもしろい。
これはもちろん両者が面白いのはもちろんだが、二人とも喋るのが好きだからだと思う。
鶴瓶が一方的に喋っているように見えるが、タイミングを見計らって適切な言葉でつっこむ上岡龍太郎が
鶴瓶の面白さを引き出しているのであり、これはしゃべりが好きじゃない人にはとうてい出来ない芸当である。
また上岡自身も、話題が自分のテリトリーに入ってくると鶴瓶に入らせないようにギアを入れ、
まくし立てるように饒舌にしゃべる。
とにかく二人とも喋るのが好きなのである。
これは今売れ続けているお笑い芸人すべてに言えると思う。
もちろんお笑いが好きだけど、喋るのが苦手という芸人もいる。
そういう人たちは長くは続かない。
ましてやもてたいから、注目を浴びたいからというだけでお笑い芸人になった人は堕ちていくだけだ。
では、喋るのが苦手な人はお笑いに携わっても無意味かというとそうではない。
ギャグマンガやコメディなんかはしゃべりを基調としていなくてもお笑いとして成立している。
お笑い芸人として成功するためには「喋り」が必要なだけなのである。

例えば、役者やミュージシャン、スポーツ選手が後々、テレビに引っ張りだこになって、そのうち元々何をやっていた人なのかが分からない人も大勢いるが、もちろんその人のキャラクターというものもあるだろうが、
喋りが好きという基本があると思う。
他方、芸人やミュージシャンが役者をやって成功する場合もあるし。
役者や芸人がミュージシャンになって成功した、残っている例は聞いたことがないが、
そこらへんは縦軸と、横軸が微妙に違うのだろう。
芸人が役者になって成功することが多いことに対して、「リズム感がある」ということが必要だと誰かがテレビで言っていたが、僕はちょっと違うと思う。
芸人はコントをしたりして演じることが多いから役者として成功するのだと思う。

SMAPの中居正広さんがテレビで司会をやったことのない仲間由紀恵さんが紅白歌合戦で見事に司会をするのは、そういう「司会の役」を演じているからだと言っていたが、その通りだと思う。
芸人も素を出しているようでどこかで演じている部分もあるだろうし、
笑いを提供している自分を俯瞰で観ている視点というものを持っているのだと思う。
だからこそ演者として成功している人が多いのだと思う。
もちろん役者として成功しないどころか下手な人もいるし、だからといってコントが下手だとか、自分を客観視できていないとかではなく、その人の持っているものによるところも多いとは思う。
ミュージシャンが役者と成功するのもどっかに自分を客観的に観てたりする部分があると思う。
こういう人たちは人に観られるが好きとか、注目を浴びるのが好きとかいう以前に「観られることに慣れている」からだと思う。
そして、音楽で自分をさらけ出しているから、隠すものは何もなくて、だからこそ「演じる」事に抵抗がないのだろう。

お笑い芸人として成功しなかった人たちのなかには、もちろん面白くない人も多々いるが、
面白くても成功しなかったのはそういう「しゃべり」という部分でハンデがあったのだと思う。
でも、そういう人たちだって台本を書いたり、裏方として成功している人もいるだろうし、
お笑いの演劇だとか、そういう部分では栄える人もたくさんいると思う。
ただテレビに出てお笑い芸人として売れっ子になるには「喋りが好き」で「お笑いが好き」というX軸とY軸が高得点でないといけないと思う。

そんな中、時折イレギュラーな人も出てくる。
古くはジミー大西さんであり、狩野英孝である。
お笑いというのはTVでも必要不可欠で、多量に消費されているから、一般の素人でもある程度お笑いの知識なり感性を知らず知らずのうちに身につけてしまっている。
しかし、その感性からズレているのがこの二人で、気持ちいいズレ具合なので好きである。
ジミー大西は「明石屋電子台」の天然ボケぶりは秀逸だったし、
狩野英孝にしても「ロンドンハーツ」でのいじられっぷりはみごとである。
天然ボケっていうのは予定調和を崩してくれるから重宝されているのではないだろうか。
自ら狙っていないところが面白いし、狩野英孝に至っては狙うと全然面白くなくて、その後の絶妙な間のズレ方が面白い。
他にも「天然ボケ」枠ってのはあるが、基本お笑い芸人というのは自分の力で「人を笑わせたい」のであり、
決して「笑われたくない」のだと思う。

僕の身の回りにも本当に面白い人はいたし、色んな人から面白い人の話を聞いたりするが、総じて共通するのはうるさいくらいおしゃべり好きなのである。
もっともおしゃべり好きでも、人の悪口ばかりを言っていても、愚痴ばっかり聞かされても全然面白くない。
「人志松本のすべらない話」が面白いのは、話し手の内容自体にはどこにも笑いの要素はなく、
本人にすれば、ただひたすら困っていたりすることが、芸人の話術により面白く変化しているのである。
この番組こそが話芸の真骨頂なんじゃないかと思っている。

他方僕の好きな落語家に立川志らくさんがいるが、志らくさんがTVで司会というか番組のホストみたいな役回りをしていても全然面白くない。真面目な話ばかりしているような気がする。
立川一門で座談会みたいなことをしていてもそれほど面白くもない。
しかし、落語となるとまったく違う。「子別れ」や「死神」はもちろんシネマ落語もおもしろい。
落語家をお笑い芸人と一緒にするのは失礼かもしれないが、
立川志らくさんはTVのサイズには合わない人なんだと思う。
いわゆる芸人で、芸をひたすら磨き高みに登ることだけを追求している職人のような人である。
志らくさんが好きなのは落語であって、「お笑い」でも「しゃべり」でもないんだと思う。
落語というのが一般大衆に向けた娯楽であり、それが現代ではTVであるように、立川志らくは落語という娯楽が大好きなんだと思う。

要するに、お笑い芸人になって売れたかったら、まず「お笑いが好き」で「喋りが好き」でないと、そのステージには上がることすらできないのではないだろうか。
そして、そこから売れるかどうかは本人の努力と、運次第なんだと思う。
ただ、お笑いに関して言えば松本人志さんが言っているように、「おもろかったら売れる」というように、
おもしろかったら何でもありなんだと思う。
お笑い芸人というのは言い換えれば「お笑いに飢えている芸人」なんじゃないかと思ったりもする。
鶴瓶もパペポのなかで「もっとおもろなりたい~!」って叫んでた様に、
松本人志が「世界で一番笑い声を聞いた耳の持ち主でありたい」というように、笑いに対して貪欲なんだと思う。
その貪欲さってのは、やっぱり「好きだ」というのがあり、その「好きだ」というところから、追求したい、探求したい、ずっと触れていたいという衝動がわき起こって、
また、人が笑わせているのをみたり、うまい返しをしたりするのをみて嫉妬したりして強まっていくのだと思う。
つまりは笑いに対する欲望であったり、枯渇であったり、満たされない感がモチベーションだったりするのではないだろうか。
例えば、これが興味のないテニスだとか、音楽だとかだったら、他人が例え世間で天才だと言われていようが、評価を得ていようが何も感じないだろうし、「へぇ~、そうなんや。すごいなあ」くらいにしか思わないだろう。
しかし、ことお笑い芸人にとっての「お笑い」で前の演者が爆笑を取っていたりするとはらわたが煮えくりかえるくらい腹立つだろうし、悔しいだろうと思う。
つまりは、自分にとって腹立たしいこと、悔しいこと、負けを認めたくないことこそが、自分の好きな事であり、したいことなんではないだろうか。
自分の中にわき起こってくる嫉妬、俺だってという自己主張、次こそはという負けん気なんかが起こるところに自分のしたいこと目指すべきことがあるんではないだろうか。

自分のしたいことはなんだろう。
自分の好きな事はなんだろう。
と、考えてもいまいちよく分からないのであれば、

自分が負けて悔しいことはなんだろう。
自分が人が出来る事に対して嫉妬することはなんだろう。
人が自慢していて、それに対してもどかしく思ったり、今に見とけ、調子に乗ってられるのも今だけやぞ。
って思えることは何かを考えてみれば意外と簡単に見つかるかもしれない。

ちょっとまずい方向に向かってるのでは…

今日は朝起きて、歯医者に行って、パズドラをちょこちょこして、唐沢なをき「漫画家超残酷物語」「まんが家総進撃」を読んだら、こんな時間(16時10分)になってしまった…。

昨日は島田紳助さん繋がりでYouTubeを観てたら、気付けば1時になっていた。

https://www.youtube.com/watch?v=E6NuOzvS-_M
https://www.youtube.com/watch?v=zeoVswlIUng
https://www.youtube.com/watch?v=uIC_a4SEEcM
https://www.youtube.com/watch?v=1ZEpHYY80bs

↑こんなのを観ていた。
パペポTVなんて懐かしくて、懐かしくて…。
今でもおもろい。
最近のお笑い芸人も凄くレベルアップしていて、漫才なんかも完成度は高いが、
フリートークとなるとさすがに練られた話芸ではないから、半減したり、全然面白くなかったりする。
その中では、ブラックマヨネーズのやりとりはいつも面白いし、さすがだなあっと思う。
とまあ、あれこれお笑い番組を観てたら一日が終わっていた。
そして今日も漫画を読んで…。
まさに「まんが家総進撃」に出てくるうだつの上がらないエセ漫画家そっくりだ。
あれこれ理屈を付けては逃げ、
言い訳しては逃げ、
自分は無能だと逃げ、逃げまくっている。
これではダメだと分かっていても、何もする気になれない。
それはずっと、家にいるからなのだろうか。
閉鎖的な空間がどんどん自分を封じ込めているのだろうか。
かといって誰かを誘ってどこかに行ける訳もなく、
一人で出歩くほどの金銭的余裕も無ければ、そもそも一人で行ける場所もない。
彼女とは一週間以上連絡もとってないし、Lineのタイムラインも非表示にされた。
いよいよ別れの時期が来たのかとも思う。
彼女の様子が今月に入ってからおかしかった。
僕が近くによると反射的によけたり、あからさまに嫌な顔をしたりしていたから、もう気持ちもなくなったのだろう。
それはそれで構わない。
正直彼女に振り回されるのには疲れていた。
去年彼女がバイクで事故った時、僕は専門校の最終課題に忙しくしていて、
その事を聞いた時、「なんでこんな大事な時に事故んねん!」って正直思った。
そう思う時点でもう、僕の方にも気持ちはなかったのだろう。
それ以前からいろいろあったし、何度も別れ話をした。
しかし、その都度タイミングが良いのか悪いのか、会うことがあったり、トラブルがあり、また、彼女とヨリをもどすことになったが、今回は無理だろう。
今までは彼女の方に少しでも僕に対する気持ちがあったから戻れたが、
その彼女に気持ちがなくなったのだからもう無理だろう。
先月に「〇〇ちゃんやったら、俺全然OKやで。付き合ってもええで」を言われたとか言っていたから、
そっちに行くつもりなんだろう。
それで良いと思う。その方が良いと思う。俺にはも彼女を背負うことは出来ないし、守ることも助けることもできないだろうから。

……まあ、それはいいとして、どんどん一人の殻に閉じこもっている感がある。
まずいなあと思いつつも、どうしたらいいのか分からない。
今2社に応募して、1社は木曜日に面接というか派遣会社なので顔合わせ、会社見学で、
もう1社は昨日、ポートフォリオのデータを送って欲しいということで送ったところだ。
その後連絡はない。
派遣の方は最初の話と違って、二交代制になるといわれてちょっと考えている。
夜勤はこの歳できついなあと思うし、二交代にしなければならない程忙しい会社での画像修正って何をするんだろうと不安になる。
もちろん印刷会社なので入校されたデータを触るのだろうが、
今まで完全データを作ってきた僕にしたら、直さなくてはならないデータを作るような会社のデザインデータなんて、ひどいものだろうから大変だろうなあと思う。
デザインうんぬんより、出稿データをきちんと作れる人と、デザインは凄く上手いのに出稿データを作れない、
そんなものは印刷会社が作ればいいと考える横柄なデザイナーもたくさんいるのは確かだ。
その印刷会社には組み版部ってのがあるくらいだから、
まあ言えばデザイン会社のDTP部みたいなものだろう。
昨今の不況からそうでもしないと印刷会社は仕事を取って来れないのだから。
惜しむらくは応募中のデザイン会社に行きたいが今の時点でポートフォリオのデータを送ってる状態なのだから、面接まではしばらくかかるだろうし、面接に行けたとしても採用されるか分からない。
仮に印刷会社が先決まったらどうしようかと考えてしまう。
ここで、もし印刷会社を断って、デザイン会社もダメだった場合、確実に無職での年越しになるし、
1月になってもすぐには仕事が見つからないだろうし、そうなると貯金が底を着く。
それは本当にヤバイ。かといって印刷会社に決まった後、デザイン会社の面接になったとしたらそれはそれで困ってしまう。
もちろん、働きながら面接を受けるという手立てもあるだろうし、
決まらない可能性もあるから、印刷会社で手を打つというのもある。
印刷会社にも決まらない可能性もあるが…。
とにかく、今募集しているデザイン会社がいろいろと調べた結果、良さげな感じで面接に行ってみないと分からないが、行きたい会社なので、進捗が気になって気になって何もする気が起きない。
両方ダメだった場合のことも考えて転職サイトは見ているがさすがにこの時期にもなると目新しい求人はない。
となると2月にずれ込むか…と考え、収入をどうすべきか考えてしまう。
短期のバイトでもするか…となるが、バイトをするとなかなか求職活動はできなくなるので難しい。
とにかくリミットは1月いっぱいなのは確実だ。
1月中に就職を決めないとジエンド。そうならないためにどうするか考えて行動しなくては…。

去年も11月いっぱいで訓練校の授業が終わり12月から就活をしたが、
結局12月、1月は何の進展もなく2月に何社か面接を受け、2次試験まで行ったが不採用だった。
それでも、僕が応募できるような求人自体は少なかったし、厳しい状況には変わりない。
とすると、とりあえずは印刷会社で手を打つという弱気な面も見えてくるのだがどうしたものだろうか…。
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